#YAMATO-1
角田大和(つのだ やまと)という騎手がいる。
23歳、まだ若手の騎手である。
父親は角田晃一(つのだ こういち)氏。
元騎手で現調教師だ。
父・晃一氏の初騎乗は1989年3月4日、第1回阪神競馬の3日目、第1R。
ミツワシンゲキ号に乗り、9頭立ての3着。
初勝利は同年3月18日、第1回阪神競馬7日目、第8R。
ヤマニントリガー号。
それから2010年2月28日に引退されるまで、8322回騎乗し、713勝。
重賞38勝、1991年、シスタートウショウで初G1勝利を上げ、
その後その初勝利も含めてG1レースを10勝。
フジキセキの朝日杯3才ステークス(当時)や
ノースフライトのマイルチャンピオンシップに安田記念、
ヒシミラクルの菊花賞、天皇賞(春)、宝塚記念などなど。
2001年にはジャングルポケットでダービージョッキーになっている。
私にとっては1995年、穴を狙って切ったヒシアケボノでスプリンターズ
ステークス(G1)を勝たれた嫌な思いが、一番強く印象として残っている
ジョッキーである。
調教師としては2011年3月5日が初出走、それから今日までの13年間で
のべ289勝をあげている。
重賞11勝、G1レースは調教師としてはまだ制覇されていない。
今年は現時点で17勝をあげている。
その晃一調教師の長男、角田大和騎手。
2021年3月6日小倉1Rでエコロキング号に乗り、18頭立て4着でデビュー。
初勝利は同年3月27日の中京5R、カフジアスール号で。
現時点で通算、97勝。
デビュー年は21勝、2022年41勝、2023年28勝、今年は8勝である。
重賞はまだ未勝利。
トップ画像は本日、中京での第10レース、3歳2勝クラス、ダート1800m、
直線に入って間もなく、早目先頭で抜け出した大和騎手(前の2頭奥側
緑の帽子)のムジェロ。
(勝ったか?)と思ったところへ外から
”ホワ~イ、イタリアンピーポぉ?”のミルコ・デムーロ騎手のサンマル
パトロールが強襲、大和騎手は惜しくもクビ差の2着となった。
大和騎手の乗鞍は、今日は全部で6鞍。
6着9着12着13着2着3着、という結果だった。
明日は2鞍、騎乗予定がある。
彼には弟がいた。
大河(たいが)という名前だった。
彼もJRAのジョッキーだった。
2022年3月5日第1回阪神の7日目、第1R、メイショウソウゲツでデビュー。
14頭立ての1着、初騎乗初勝利でのデビューだった。
そこからデビュー年39勝し、JRA新人騎手特別賞を受賞、
2023年も39勝、2年目の同年、GⅢ毎日杯をシーズンリッチ号で征し、
重賞初勝利をあげている。
今年は18勝していた。
2024年7月28日、札幌第10レース、ポプラステークス、シダー号で2番手
からの先行抜け出し、2着に1と3/4馬身差をつけて勝ったのが、
彼の最後の勝利である。
既にご存知の方もおられると思う。
亡くなられたとJRAが発表したのが今日で、実際に亡くなったのは
恐らく8月2日であろうと思われる。
亡くなった事についてJRAの発表が遅すぎるとか、何を隠蔽しているのか
といった声があるが、今回の件、JRAは被害者であって何一つ落ち度は
ない、と私は考える。
一組織が、警察のような捜査権も無いのに、人の生死について確証の
取れない状況で発表などできるわけがない。
北海道、上野幌駅で電車への飛び込み事故があったのは、
8月2日午後3時過ぎだったという。
そこから轢〇体をかき集め、所持品の確認に奔走し、DNA鑑定の結果が
出るまで、うかつな事は言えなかっただろう。
家族ですら、わかっていてもそれを口にする事ができなかったのでは?
とさえ思える。
大河騎手といえば昨年5月、金曜夜に公正を期す為、日曜の最終レースが
終わって帰路に着くまで、携帯を預けた上騎乗予定のある競馬場の
ジョッキールームに、騎手は缶詰とならなければいけないわけだが、
そのジョッキルームで同期とスマホで長話をするといった”騒ぎ”という
か、事件を起こした事がまだ記憶に新しい。
(個人的にこの規則もそろそろ何とかならんのだろうか、とも思うが)
20代の若者が電車に飛び込んだ、という情報があった8月2日の1日前、
8月1日午後8時30分頃、7月14日に開催を終え、北海道に滞在している
競走馬たちの調教の場として使われていた函館競馬場の芝コースを
疾走する車があったという。
連絡を受け急ぎ函館競馬場にやってきた警備の方が、その車を止めると
運転者は角田大河騎手、他に同乗者が1名いたとの事。
「花火を見ようと思って、車で侵入した。飲酒はしていない」
と大河騎手は言ったそうだ。
同夜、函館市内では花火大会が行われていた。
翌朝、太陽の光の下、くっきりとタイヤ痕がある函館競馬場のコースの
写真がネットにあげられていた。
痛々しくて、思わず目を背けた。
その日、8月2日午前10時頃、JRAは大河騎手に15分ほど事情聴取を行い、
一旦帰したようだ。
同日午後、裁定委員会にかける事が決定し、その旨大河騎手に通知しよう
としたが連絡が取れなかったという。
それから今日の訃報が発表されるまでの間、本人と連絡が取れず、家族で
すら取れていない、というコメントを繰り返す外なかったと思われる。
8月2日の夜、元騎手で引退後バーを経営しながらyoutubeの配信などで
色々と物議をかもす事の多い”あの方”が、ネット競馬民の寝耳にバケツ
で水を浴びせる、という一幕もあった。
どこからどういう経路で入手するのか、知る由も無いが、結果的にあの方
はその時既に、確かな情報を掴んでいたという事になる。
まだJRAからの発表もなく、ネット上には
”不確かな情報を拡散するな”
”人の生死に関わる事を軽々しく配信すべきでない”
といった声もあり、もっともだとも思ったが、SNSがここまで広く浸透して
いる今の時代、(それを言った所で)という気がしないでもない。
”まだ連絡が取れないまま?””どうなってるの?”という声に、
競馬関係者を名乗る方が”厩舎関係に生存を確認、現在謝罪行脚の準備中”
などというポストがあったりして、私が感じた限りでは、昨日夕方頃までの
ネットの空気は”まさか早まった真似を?”から”とりあえずホッとした”と
いう流れに変わりつつあったように思う。
それが昨夜、以下の情報があった途端一気に逆流した。
”北海道・上野幌駅で特急列車に飛び込んだのは、
滋賀県栗東市在住の21歳の男性”
栗東。
競馬民にはおなじみの地名である。
東の美浦トレセン、西の栗東トレセン。
関西所属の競走馬の調教、所謂競走馬のトレーニングセンター、
トレセンは滋賀県の栗東にある。
武豊も住んでいる。
そして大河騎手の年齢は21歳。
私の体感的には、この情報がもたらされたあたりから、ネットへの
書き込み数が減ったように思う。
そして今日、JRAは角田大河騎手が亡くなった旨9日夜にご家族から
報告を受け、今朝発表した。
記者からこんな質問があったという。
”事情聴取の際、威圧的だったのではないか?態度が厳しすぎたのでは?”
JRAは穏便に聴取を行っており、そのような事はない、と答えている。
JRAの競馬場は全国に10場あり、1月から2月ほど競馬を開催した後、
次の開催まで数か月、馬券発売だけを行う時期を必ず間に挟める
よう、10場で持ち回りで競馬を開催している。
なぜか?
レースを開催する事によって傷んだ芝を回復させなければならないからだ。
それは開催中であっても、馬場造園課なる組織まで作り上げて毎日、
手入れを行っているほどで、それほどレースへの影響が大きいものであり、
そんな事は素人の私がここで説明するまでもなく、騎手であれば、レース
に乗る前に必ず気にするのがこの”馬場の状態がどうか”という事だ。
例を上げれば、例えば夏の福島競馬場である。
ダートは別として芝のレースの場合、距離の長短に関わらず、開催初期は
内枠の先行馬が絶対有利で、外枠の差しはまずほとんど決まらない。
これが開催後期になると逆となる。
毎週レースによって芝が傷んでくるわけだが、開催初期に有利な内ばかり
走られれば当然内側の芝が荒れて、外側の荒れていない芝を走ってくる
差しが届くようになるからだ。
ちなみに函館競馬場と札幌競馬場、北海道にあるこの2つの競馬場だけが
他の競馬場と違う”洋芝”を使っている。
他場のように”あし”が短く、従ってクッションがあまり効いてない固い
馬場でスピードを競うだけではないからこそのレース展開の妙味という
のが、函館と札幌にはあるのだが、その詳細はまた別の機会にさせて
頂きたい。
洋芝とは”あし”が長く、従ってクッション性の高い馬場となるので、
ヨーロッパ(凱旋門賞が行われるロンシャン競馬場とかetc)の馬場
に近い。
そしてメンテナンスにコストがかかる。
その特性の一つとして、一度傷むと回復するまで時間がかかるという
のがある。
だから、函館と札幌の開催日数は、他場と比べて少ない、と言われている。
芝の回復に時間をかけなければならないからだ、と。
(開催日数が少ないのはそれだけが理由ではないが)
くどくどと競馬場の馬場の芝の事を書いているのは、大河騎手が
競馬関係者にとって、私みたいなただの馬券好きの素人でもちょっと
考えればわかるが、競馬で飯を食っている人たちから見れば、
一体、どれくらい衝撃的な事をしてくれたのか?というのを
多少なりとも感じ取ってもらえれば、と思った次第である。
そして。
血も涙もないJRAのかたを持ついわれは1ミリも無いが、記者のJRAに
対する質問もちょっとおかしい気がする。
芝コースの上にくっきりとタイヤ痕があるのだ。
そのタイヤ痕をつけた当人に、威圧しろとは言わないが(そもそも
そんな事は無駄でしかないと思うが)、じゃあ事情を聴取するのに
もみてでご機嫌でも伺いながら、宇治の玉露をお出しした上でまずは
天気の話など世間話から入った上、時折そうした話を織り交ぜながら
聴取したのか?、とでもいいたいのだろうか?
腫物にさわるようにしてれば、飛び込まなかったとでも?
いや、これ以上はやめよう。
ただ、本質からズレたまま記者さんたちは自分たちがズレた事など
一言もいってないつもりなんだろうな、と。
この辺りの話はまた別の機会としたい。
また、ここで大河騎手のした行為について、何か書く事はしない。
書き出したら、明後日になっても、うとうとしながらキーボードを
叩いている気がするからだ。
少し前、藤岡康太騎手がレース中の落馬が元で逝去された。
亡くなられた日は2024年4月10日、35歳だった。
今も競馬場内やWINS内には記帳台や献花台があり、藤岡騎手が亡く
なった直後の開催時、関係者や騎手たちは喪章を付けてレースに臨んだ。
今日、大河騎手の訃報が朝、発表された後、札幌で、中京で、新潟で、
何事も無かったかのように、普通に、36のレースが行われた。
誰も喪章など付けていないし、記帳台や献花台など、どこにもない。
そして、それで当然だ、と私は思う。
そんな中、父の角田晃一調教師は、中京で1頭、札幌で1頭、2歳馬を
デビューさせている。
札幌では3勝クラスのハンデ戦に、ゴットグルーピー号という4歳牡馬
を浜中騎手で出走させ、2着に来ている。
兄の大和騎手は中京競馬場で6鞍を乗った。
勝つ事はできなかったが、先述のように第10レースであわやの2着が
あった。
明日は2鞍、騎乗が予定されている。
そんな父と兄の姿を、大河騎手があの世から見ているかどうかなど
わからないし、知りようもない。
今回の件で、色々と考えさせられる所はあった。
ただ考えてもどこにも辿り着かなかった。
着かなかったが、見たい、とは思った。
これからの、角田晃一調教師と角田大和騎手の背中を
ただ、見続けていきたいと思った。
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