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The edge of お江戸-11

大坂からはるばるやってきた日光東照宮で、お参りの最中、自分で勝手に
そう思い込んだ“天啓”をもとに、絵草紙のはなしを書き始めた嘉兵衛かへえ
 
良運だったのか、悪運だったのか。
今にして思えば悪運だったとしか思えないが、噺を書き始めたその時、
絵草紙画の彫師ほりしだというその男が現れ、思わずなんと良い
ウンがついたものか、と思ったのだった。
 
しかし一方であの時、(でもこれ、腐れ縁とちゃうか?)とちらと頭を
よぎった思いが、今、現実となって嘉兵衛の目の前にある。
 
まぶしくさえ見えた絵草紙画の彫師だと言ったその男、吉次郎きちじろう
 
今、嘉兵衛の目の前、日のおちかけた長屋の薄暗い部屋の中、何年も替えていないたたみのささくれの上に正座、というよりは土下座といった“てい”でかしこまっている。
 
負けず嫌いの江戸っ子気質が彫り刀を持ち歩いているような吉次郎、半分
ちじこまっているような、それでいてもう半分は居直っているような、
どうにもちぐはぐな感じがする所がこの男の味というものなのかも知れない、と思いながら嘉兵衛は長い沈黙の間を破った。
 
「なぁ、吉やん」
「ま!・・そういうこった!悪ぃが・・おっちゃん・・・」
 
畳のささくれを見つめていた吉次郎は、一旦言葉を切って嘉兵衛を見た。
嘉兵衛も吉次郎を見ていた。
 
「・・・なんや?」
「・・・“おっちゃんじゃねぇ”って言わねぇの、な・・」
「あ・・ああ・・・・・忘れとった・・」
 
二人同時に、それぞれ逆の方へと目をらす。
嘉兵衛は右へ、吉次郎は左へ。
 
部屋の中の空気は、落ちかけた日の勢いそのまんまに重苦しかった。
 
俺に彫らせてくれ、と申し出てくれた彫師の吉次郎、
渡りに船と噺のト書きを渡した売れない書き屋の嘉兵衛、
吉次郎が木版画を彫る間、その長屋に居候しつつ、そこに住んでる
かみさん連中の家事手伝いをしながら過ごす事、ひと月。
 
吉次郎が彫り上げてくれた28枚の木版画は、見事な色と華を
噺につけてくれた。

早速その原板28枚を風呂敷に包み、出版をうけてくれる版元求めて
今日の昼間、龍がごとく地本屋めぐって江戸の街を飛び回った嘉兵衛
だったが、結果は、画竜点睛がりょうてんせいを欠いた。
 
噺を出版するのはやぶさかではないが、吉次郎が彫った画は、
地本じほんとして出せない、という。
 
1軒目はト書きを読んだだけで断られたが、読んだ後、算盤はじいて
額を提示してくれた2軒目、3軒目、両方とも画を彫ったのが吉次郎
とわかると、とたんに地本を出す為の算段話がたぬきの皮と化した。
 
2軒目の番頭は、 “あいつの彫った画なんぞ一切うちから地本として
出す事はない!”と、けんもほろろに、3軒目の八兵衛はちべえと名乗った番頭は、“できればあたしは戻してやりてぇんですがね”と、昔、八兵衛自身が面倒を見た事もあったが、今じゃ吉次郎は出版界隈に身の置き場がないのだと嘉兵衛に語って聞かせ、吉次郎を気遣いながらも出版はできないと、理由は本人に聞いてくれと言うのだった。
 
なぜ、吉次郎の彫った画は駄目なのか?
 
八兵衛の話では、今頃売れっ子の彫師になっていたであろうという、腕っこきの吉次郎が出版界隈にいられなくなったというのは、どういう事か?
 
わからないままとぼとぼ長屋へ戻った嘉兵衛の浮かぬ顔に出くわした吉次郎、まるでそうなる事がわかっていたかのように、軒先のきさきの地べたに土下座して頭を下げた。
 
それから二人、部屋に入り、山ほどある吉次郎に聞きたい事の何からどう
切り出そうかあぐねていた嘉兵衛の機先を制し、“昔、抜け売りをやった”と、昨日の晩飯はうどんを食った、と言うような調子で吉次郎は言った。
 
自分が彫って絵草紙として、私家本しかぼんとしてではなく、添賞そえしょうのついたお上お墨付きの正規の流通本の重版じゅうばん(今でいう海賊版)を自ら作って、それを売ったのだという。
 
まだ駆け出しに毛の生えたような時分とは言え、腕を見込まれ、彫りの仕事もちょこちょこ入っていたのであれば、懐もぬるめとはいえそこそこ温かったはずだ。
 
普通、重版と言えば、他の者が書いた噺なり画なりに、似せた物を作って、さも自分がこしらえたモノでござい、と売りに出す。
 
物書きや絵彫りで飯を食っている者にとっては、ご法度はっと中のご法度だった。
どんなに腐ってもその界隈で身を立てている、あるいは立てんとする者ならば、絶対にやってはならない事である。
それで飯を食っている、という矜持きょうじが成り立たなくなってしまう。
 
ましてや自分が彫った地本の重版を作るなど、狂気の沙汰と言えた。

他人のふんどしでなく、自分のふんどしを洗ってもう一度使うといった
気味の悪さが先に立ってしまい、その奇怪さのみが気分を染めていく。
 
ただでさえご法度の重版作りに、地本の玄人くろうとが手を出したばかりか、自分が出したものでそれを作ったとなれば、わけても卑怯ひきょうを嫌う江戸っ子達は、重版による実害もさる事ながら、その事を知った時の気分として害されたというのを通り越し、吐き気がする、といったたぐいの振る舞いと言えた。
 
吉次郎がやったのはそういう事である。
界隈追放のき目にあうのも合点がてんがいく事だった。
昼間、2軒目の版元の番頭が言った“あいつが彫った画なんぞ!”という
言い草が、嘉兵衛の頭をよぎる。
 
だが。
 
だからこそ、それをやった理由がそこにある、と嘉兵衛は思っていた。
 
「なんでや?・・吉やん?」
 
右にそむけた顔を正面に戻して、嘉兵衛は言った。
 
「何が?」
 
薄闇の中、もはや吉次郎の表情も見えない。
だが、顔を背けたまま、こちらを見もしないのはわかった。
 
「なんで・・そないな事したんや?」
 
“重版”という言葉を口に出来なかった。
あまりに生々しくて、口にしたとたん、嘉兵衛はおぞけが走るような気がしていた。
 
「なんでだっていいじゃねぇか・・そんな事ぁ、」
 
と立ち上がりかけて吉次郎は、古い畳の上にどぉと倒れた。
倒れて、そして前に身を突っ伏したまま続きを言った。
 
「どうでも・・いいこった・・・」
「言わんこっちゃない」
「うるせぇよ」
「慣れん事するからやで」
 
吉次郎はまだ突っ伏したままでいる。
長い事、正座したのなんて何十年ぶりだろうか。
 
するとそのまま突っ伏していたら、どういうわけか笑いがこみあげてきた。
“くっくっく”と渇いた笑い声を抑えきれず、畳のささくれで顔をひっかかれながら、吉次郎は両肩を震わせた。
 
「なんや?足のしびれが頭に回ったんか?」
「くっくっく・・ちげぇねぇ」
 
言いながら吉次郎は顔を上げ、ゆっくり体を起こし、いながら壁に背を預ける形で足を投げ出すと、薄闇の向こうへ言った。
 
「こういう事だからよ、おっちゃん」
「おっちゃんではないけどな」
「もいっかい、他の誰かに彫ってもらってくれ。八兵衛さんに言や
誰か彫師を手配してくれると思うからよ」
「・・・あンたのひと月分はどうするんな?」
「そんなもん、ハナからお代もらおうなんぞ思っでもいねぇよ・・・
俺ぁ・・」
そこでしばらく沈黙が闇を支配した。
 
「どないした?」
 
と嘉兵衛は闇の向こうに声をかけた。
 
「・・・ただ・・俺ぁよ・・・」
 
響いた声は、濃く潤んでいた。
再び沈黙が支配する中、かすかに何かをすする音が聞こえる。
だしぬけに嘉兵衛はいった。
 
「やぁ・・もうこんなに暗くなっとるやないか」
「彫りたかったんだ」
「・・・・・」
「俺ぁ・・ただ・・彫りたかったんだ・・・」
「そうかぃ・・・」
「・・・・・ぐっ!・・」
「・・飯作るゎ、遅なったけどな」
 
薄闇の中、嘉兵衛は立ち上がった。
土間どまに降りて、手探りで釜に手をかける。
 
「米はどこかいな・・っと」
 
行灯あんどんを入れる事にも気持ちが向かず、嘉兵衛はひたすら米櫃こめひつを手探った。
薄闇の向こうで、やたらと何かをすすり上げる声ともつかない音に追われるように、嘉兵衛は米櫃を手探った。
 
「吉やん!今から井戸に汲みいくのもめんどいで!
今日はパサパサでええか?」
 
背中を向けたまま嘉兵衛は、薄闇の向こうに声をかける。
 
「・・あ・・ああ・・えぇよ・・」
 
しゃくりあげながら、吉次郎はくぐもった声で答えた。
 
「待っとり!今くさけな!」
 
もう一度嘉兵衛は背中で言った。
 
その夜、いつの間に吉次郎がけたのか、油の残り少ない行灯の小さな灯の下で、二人は無言のまま漬物だけで飯を食った。
薄明りにすかして盗み見ると、もう吉次郎の頬は濡れておらず、能面のうめんのように無表情な顔で、飯をほおばっていた。
食べるというより、ただ飯を口の中に運んでいる、というような
食べ方だった。
 
翌朝。
 
起きると嘉兵衛の姿はもう無かった。
部屋のすぐ目の前にある井戸端から、長屋のおかみさん達の、いつものかまびすしい話し声も聞こえない。
 
土間のサンから、日が差している。
 
もう明けきった時間か、と吉次郎はぼんやりした頭で思った。
 
(そうだ。おさきさんとこの、あのでっかい漬物石だ!
あれにしよう!)
 
と思いついて、吉次郎は体を起こした。
少し元気になっている。
わずかに気が入ったからか、身の周りの景色が少しづつ目に入ってくるようになっていた。

すると、土間への降り口の畳の上に、吉次郎の小さい漬物石が置いてあるのが目にとまった。
 
(なんであんな所に漬物石が?)
 
と思ったが、その下に紙が置いてある。
風でとばないよう、嘉兵衛が上に置いたのだろう。
出かける前に、何か書きつけていったらしい。
 
腹ばいになり体を引ずらせてそこにいった吉次郎は、石をどかし、下の紙を手にとった。
が、腹ばいのまま思い切り顔をしかめると、すぐにその紙をわきへと
放り投げた。
 
(いつぞや、字がへたくそな事においては大坂一だと自慢げにぬかしてやがったが、ホントに汚ねぇわ・・・読めやしねぇ)
 
と、仰向あおむけになる。
そのまま頭の下で両手を組んだ。
 
(どっちにすっかなぁ・・あっちのより4丁目の川の方が底は深ぇだろう
から・・やっぱ4丁目か・・遠いんだよな・・・
でもまぁ歩くのもこれが最後だからよ・・・浮かび上がった無様な恰好
なんざ見られたくもねぇ・・やっぱり深ぇ方がいい・・・あれだけ
でっかい漬物石なら、そうそう浮かび上がりゃしめぇ・・
あとで縄探さねぇと・・・)
 
それから吉次郎は、いない嘉兵衛に向かって、天井見ながら
心でつぶやきかけた。
 
(おっちゃん・・ありがとうな・・彫らせてくれて・・短い間だったが
楽しかったぜ・・ここはおっちゃんが住めばいい・・狭くても一人なら
十分だ)
 
清々すがすがしい気持ちだった。
涙も浮かんでこなかった。
代わりに嘉兵衛のけ顔ばかりが、やけに浮かぶ。
 
(そういや・・)
 
とやはり何が書いてあったのか、気になった吉次郎は、体を起こした。
両足を放り出したまま、両手を背中の方へ斜めについて体を支え、嘉兵衛の
書付かきつけを探し、その狭い部屋をきょろきょろ見回すと、ある事に気づいた。
 
吉次郎が彫った、28枚の木版画が無い。

いくら見回しても、部屋のどこにも見当たらないのだった。

吉次郎の尻が持ち上がった。
 
(なんで?)
 
わけがわからないまま、畳の上、尻を浮かせて座った格好でもう一度
部屋を見回す。
 
あった。
 
背中の方の左手方向にまで、風に飛ばされたらしい。
吉次郎は膝をついて急いでにじりよると、飛ばされていたその紙を
手にとった。
 
半刻とは言わないまでも相当時間がかかった。
どうやら全部ひらがなのようだ。
そのミミズがのたくったような墨のあとを吉次郎は解読し、何とか
文章として意味が通る組み合わせを見つけていった。
 
“きちやん あさめし ちゃんとくえ つけもの どまに ある”
 
多分そう書いてある。
 
“めしに さゆかけて くえ”
 
うるせえよ。“
 
“はんもと いく”
 
ああ行けよ、一々こんな書付残すな。
 
“あの え もって”
 
・・・・・・・・。
 
何とか最後まで解読し終わった吉次郎は、力が抜け、へにゃりと
畳の上に座り込んだ。
顔には力のない笑いを浮かべていた。
 
書付の最後には、恐らく、こう書いてあるらしかった。
 
“あの はなしは かならず あの え で ち”ほん に する
あの え でなきゃ しゅっぱんは しない“
 
吉次郎は、それと意識せずに顔から笑いを消していた。
その事に自分で気づいていなかった。
 
そして、とりあえずおさきさんとこに忍び込むのはやめだ、と思った。

<続く>
 


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