親は倒れる、キャリアはあがる。

そもそも、旦那さんが鬱を発症したのが娘が11歳、そして離婚宣言をはっきりされたのは娘が19歳、いずれもマイホームを購入するか否かが、トリガーでした。私達は経済的な感覚も違えば「住まい」に対しても圧倒的な意識の格差があることをじわじわと、ひしひしと感じ始めていました。

私自身は、親が不動産をやり、趣味で家をポンポン建てるような家庭環境で育ち、旦那さんは下町の飲食業の親がトンビがタカを生んだと言われた風でした。いわゆるマンション育ちの旦那さんと、田舎の戸建て暮らしの私と、衣食住の中で「食」以外は学生の頃より一切重なってないことに、今ならすぐわかるのですが、完全な離婚宣言まで、何だか認めたくなかったんですよね。あんなに仲が良かったのに、いつの間にかこんなに価値観がずれてしまっていることを、当時の自分は包み込むことも、私は私!と言い切ることもできないくらいに、すべての連帯感が旦那さんとはなかったのだと思います。

なぜならセックスレスで全部旦那さんの自由にしてあげて、その間も離婚を突きつけられ、休みも夜も自由な時間に帰ってくる(けれど、良いお父さんであることは今も変わらず)彼が、家くらい好きにさせてくれることが離婚の条件でもあると私なりに無意識に思い込んでいた、それくらいは手に入れたいとおもっていたのだと今ならわかります。ギブギブギブ、与え続けたのだからテイクとして、家くらいは!という感覚です。

その頃、旦那さんが長らくがんばっている実家の家業でもまさかの父親(社長)と意見の相違があり、たった一年で跡継ぎの自分が解雇されるというアクシデントもあり、自分としては家庭内別居も、キャリアもまとめて清算する良い一年半となりました。

両親とも連絡を取らず、淡々とあたらしい趣味に没頭し、ついで自分が望んでいた某大手のアナウンサーやデモンストレーションの仕事の機会を得ました。

そこではいわゆる国賓や公賓の方達と接しながら、自分の価値観の広がりを知り、自分の家の稼業の可能性を感じ、精神的な成長に心を奪われました。

旦那さんに頼らずとも、私には私の家があり、家庭があり(それが私一人でも「ホーム」はある)、私は私のライフスタイルをこれ以上曲げない!という自然な形での決意が固まりました。

ただ、言葉や行動にするにはまだしばらく時間が必要でした。それは長らくがんばってきた家庭内別居の疲れと更年期の始まりが少しずつ重なってきたからです。

重なる時は重なるもので、一年ぶりに親から来た連絡は母親が癌になったというものでした。

(続く)

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