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他人のアタマでとったノートの効力


この記事は1058文字です。


効果的とされる勉強法や

有名大学生のノートの取り方は巷にあふれています。

私もそういうものを試したこともあります。

効果があったものと効果を感じられなかったものがあります。

いろんな原因があると思います。


・やり方が間違っていた。
・やり方は合っていたけど自分に合わなかった。
・自分に合っていた(かもしれない)が効果を感じる前に中断してしまった。

などなど。

ノートもそうではないですか?

「ノート見せて」と言われて違和感を覚えるようなことはありませんか?


今は昔の看護学校時代、当時の成績は良かった方です。

ある日、

「ノートを見せてほしい」とクラスメイトに言われました。


殴り書きで字が汚いのがまず恥ずかしかったです。

それより気になったのは

私が自分のために理解しやすいように、

私のアタマ(思考)で取ったノートは

他の人に理解しやすいノートの取り方とは

限らないんじゃないかなということ。


だって私と他者との頭の中、

例えば、知識の受け入れ状態や、理解の過程はちがうんですもの。

偉ぶるつもりはないです。自分が優秀だなんて思っていません。


専門学校では丁寧に板書するような授業はありません。

自分でポイントを見つけたり

板書やプリントに書かれていない教員の言った言葉に

重要性を見出すしかないんです。


ノートを貸すこと自体は問題ではないのですが、

私が重要だと判断したポイントと、

重要でないと判断したから省いたポイントがあるという過程が、

私のアタマの中を見ていないので他者には伝わりません。

ノートを取るのって、板書のコピーではありません。

自分なりに試行錯誤するという

そういう過程も含めてのことだと思います。


出来上がったノートだけを見て

「ノートの取り方が上手だ/下手だ」と言われるのは構いません。

「あの程度のノートで成績がいいのは

もともとの出来が違うからに違いない」とか、

そういうことで片付けられたくなかったのです。

私なりの試行錯誤の存在も

取り扱って欲しいという思いがありました。



ノートに限らず、

世間でいいと言われるものが

自分に合うとは限りません。

「自分に合う」のと、「良い」のとは違います。

「自分に合わない」のと「悪い」のは違います。

良い方法を知っている人の知恵を借りるのは

効率化や近道ではありますが、

そこには、その方法をつくった人の試行錯誤や思考があります。


「自分に合う」のが「自分にとって良い」方法とするなら

自分に合う・合わないを吟味する作業には

ある程度の時間は割いた方が良いと考えています。



お読みくださりありがとうございました。









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