信仰は死を超えて
ここのところ、嫌らしい話(おカネの話)が続いたけど御免なさい。
ここnoteで好き勝手な事を言い続けようとするには小生的に経済的裏付けが必要になって来るので。作家さんとか書き物屋さんのご苦労も解っているつもりなので、noteで稼ごうとは思っていない。
で、まぁ同居家族は昨年10月11日救急搬送時は意識混濁状態で医師には「植物人間」と宣告されたのだけど、毎日きょうだいと共に面会(見舞い)をして行ったら最近簡単な反応を見せるようになって来た。昔ながらの友人を連れて行くと嬉しそうな表情を見せる。
で、その家族が在命中は何とかなりそうなので、おカネの計算は止めてせいぜい節制生活をしておこうという事にした。考えるのは相続後だ。
で、今日ちょっとある店で店主と話していてちょっと思った事を。
十数年前、小生の父親が急逝した。今回の家族同様、心不全で。前日まで自分で風呂に入っていた親父が次の日の朝、亡くなった。一言医者に言いたい事もあるのだけれど、言ったところで死人が生き返る訳でもなし。
で、その時ある想いを自覚した。
(死んだって)ご縁がありゃまたいつか会えるさ
こう思うから、ひとときの別れの分だけ涙は出たが、今回もそう思うからこそ家族の心配でなく自分のおカネの心配なぞしていられるんだと思う。
今日のくだんの店主は若くして奥さんが死産したそうだ。話をしていていつまでも連れ合いとの別れを引き摺って生きているように聞こえた。
「(死んだって)また会えるさ」という信仰。ご縁があれば。
次元を超えた思考実験をやっている関係上、死を超えた思考を持つってのも自由だと思うし、そう考えれば死は悲しいけどそれほど悲しくは無い。
無宗教を称する日本人はこれくらいの信仰を持ってもいいのではないかと思う。そうでないから何をやるにも何かにつけ必要以上に臆病になるのではないだろうかと。世の中は「危ない」「危ない」とちょっと言い過ぎなんではなかろうか。
人は死ぬものであるから、そもそもが「危ない」のにね。
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