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「MACHIDA PC MAP」とは(後編)

前回に引き続き、MACHIDA PC MAPの思い出を語る。

Impress社との思い出

ここまで書いてきたように、「MACHIDA PC MAP」は「秋葉原マップ」の影響が間違いなくある。1996年、インターネットを始めたばかりの頃で、「秋葉原マップ」の「AKIBA PC Hotline!」の日曜日朝の更新のタイミング、テレホタイムの時間帯に起きて記事を読むなど生活に変化も出ているような状況だった。それでメモリの値段を調べて秋葉原に行ったり等、PC熱が自他共に高かったことを思い出す。

そんなだから、「日本全国電脳街マップリスト」にリンクを張ってもらったときは本当に嬉しかった。アクセス流入も掲載後一気に増えたと記憶している。「日本一の売り場面積のパソコンショップ」メディアバレーを擁する電脳街として、注目も高かったのだった。

あとは、やじうまPC Watchに紹介してもらっていたこともある(https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/yajiuma/9707.HTM ※7/30の第4)。ASAHI-NET提供のCGIフォームを使った「町田にほしいパソコンショップアンケート」が紹介されたのだ。なんと、紹介されたことに当時は気づいていなくて、開催1年後くらいに気づいた記憶がある。どおりで第2回で投票数が増えたわけだ。

しかし、このアンケートで複数票を得たツートップ、ヨドバシカメラ、DOS/Vパラダイス、ビックカメラ、パソコン工房。過半数の店が町田に結果的に出店したことを考えると感慨もひとしおである。

じつはインプレスが初めて新卒採用をするという年に何の因果か自分も新卒採用される側だったということもあり、インプレスの企業説明会に申し込み行ったことがある。学生が入るのと同じルートで、インプレスの塚本社長も荷物が入ったカバンを抱えて入ってきて少しびっくりした思い出がある。塚本社長の砕けた感じが社風を感じさせられ、凄いプラスの刺激の強い会社説明会だったと記憶している。結局受けるのは控えてしまったが(これだけいい思い出があるの落ちたくないってやつだ)、やはり日本のIT史に同社が果たした役割は小さくないということである。

ASCII DOS/V ISSUE誌への寄稿

MACHIDA PC MAPのなかで大きかった出来事といえば、ASCII DOS/V ISSUE(1997年12月号)誌への寄稿したことである。なんと、これが人生初めてのアルバイトなのだった。通っていた高校は別段バイト禁止ではないのだが、だれもバイトをやっていないという、全体からするとやはり特異な学校だった

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メールで連絡を頂き、過去の記事のコピーを参考に頂いた。顔イラストごと掲載されるという記事だったので、何枚か銀塩写真を送った。当時は髪を伸ばしており、長い髪のイラストが掲載された。もちろんであるが、掲載前にあらためて足で歩いて取材した。「足で現地を見る」という、その後の原点になる営みだったかと思う。実際に掲載されたら嬉しかった。対価も頂いたが、高校生のバイトとしては不相応な額だったかもしれない。だから、その額に見合う仕事をしようといつになく慎重に書いた。プレッシャーのかかる仕事を10代後半で経験出来たのはやはり貴重というべきか。

見本誌を頂いたが、一冊だけしか持っていない。自腹でもう1冊保管用を買えば良かったのだが、当時はそこまでお金がなかった。

MACHIDA PC MAPの終焉

大手サイトへの掲載、商業誌への寄稿など得難き経験が出来、ASAHI-NETの表彰などもあったが、町田の変化より前に私に変化が訪れようとしていた。

ヨドバシカメラ町田駅前店の開店レポート公開と同時に、1999年1月以降更新休止をする宣言を出した。時は高2の秋、バイト禁止されてもいないのに誰もバイトをしない特異校(私立中高一貫校)では、高2の秋を過ぎると部活を引退し受験に専念するというのがおよその風習だった。別に続けても良かったのだろうが、「完全戦国年表」を作ってしまうような経緯を抱える程度には劣等生の部類だったので、勝手に感じていた同調圧力を抗する度胸は当時の私にはなかった。私がふてぶてしくなれたのは大学院で経験を積むまで待つ必要があった。携帯電話・PHSが11桁になるタイミングでMACHIDA PC MAPと完全戦国年表は更新停止された。尤も、「試験電波発射中」でMACHIDA PC NEWSだけ細々と更新された。別に真面目に更新休止を宣言をせず、せいぜい「完全戦国年表」の連載を不定期にする程度にとどめておけばよかった気もするが、本当に真面目に考えすぎるきらいがあった。

ゲートウェイカントリーが開店したものの、まず老舗キャノンゼロワンショップが閉店し、T-ZONE相模大野店が閉店した。PCパーツショップのV-Clubが移転し、結局は最後にメディアバレー町田店が閉店した。ヨドバシカメラが町田に出来たあたりからメディアバレーの元気はなくなりつつあった。青臭く檄をとばしたり一消費者として無責任に放言したりもしていた。が、ここに書いた閉店話は、町田やパソコン市場に起因するものでなく、運営会社の事情というのが大きかったと、今となっては思う。ダイエーが1990年代後半に一気に低迷したということだろう。逆に1990年代前半はメディアバレーに限らず元気だったことにびっくりしてしまう。

そうこうしている内に大学受験は延長戦(浪人)となった。特異高校においてはバイトは珍しかったが浪人は珍しくなかったのだった。町田に定期券で通えることもなくなった。そもそもメディアバレーが閉店して、町田のパソコンショップには動きがなくなっていた。更新休止のときに「『パソコン』は町田に認められたのだ、ということ」という記事を書いているが、17歳でこれが書けたのは神が下りてきていたというか、スーパー高校生だったのではないかというか、よくここまで見抜いていたな過去の自分に感心する。1990年代の町田は、車社会ではあったが、まだまだ買い物は郊外ショッピングモールでなく駅前でというところがあった。「パソコンショップの街」という観点は町田から希薄となり、コモディティ化したパソコンは首都圏西部の商業拠点である町田で気軽に買い物出来るものになっていった。その意味で、パソコンは日常的に買う可能性があるものとなり、全国チェーン(ヨドバシカメラ・ソフマップ)が主体となったこともアリ、ショップの動きは落ち着いていったのだった。

そして私は、紆余曲折の結果なんと生まれ育った関東地方を離れることにしてしまった。「MACHIDA PC MAP」は未成年だった私にとって最大のOutputだったが、それを閉じてしまうのは小さな自裁であった。だが、町田は落ち着いており、私は劇的にステージを変える必要性にあったのだった。Webサイト運営のリターンは予想以上のもので、1990年代後半にインターネットに出会って経験を積んだことが、私立文系だった私がコンピュータ・サイエンスの分野に突如変転した面はある。それはそれで次の挫折を経験することになるのだが。

町田を歩くという経験・インターネットでWebを運営する経験が、次のステージの選択と行動に活かされた。やはり、町田に育ててもらって、町田を卒業した感が強い。いまでも、町田に降り立つと心は浮き立つ。町田は私にとって、強烈な思い出の地なのだ。


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