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WEリーグ入会申請したちふれASエルフェン埼玉が目指す未来と決意表明。代表取締役会長 宮内聡さんインタビュー

ちふれASエルフェン埼玉の代表取締役会長に宮内聡さんが就任されたのは2020年4月1日のことでした。ちょうどCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)の緊急事態措置が実施される直前であったため、本来ならば大きく報じられるべき、このニュースはほとんど報じられることがありませんでした。プレナスなでしこリーグが開幕した後も、多くのメディアが、女子サッカーにじっくり触れる余裕がない中で、宮内さんにお話を聞けるのは私しかいないという信念で取材を申し込みました。幸い、ちふれASエルフェン埼玉のWEリーグ入会申請の業務がひと段落したタイミングでお時間をとっていただくことができました。

選手集合

レジェンドは、なぜ女子サッカーに戻ってきたのか?

宮内聡さんは日本のサッカー史の重要な役割を果たしたレジェンドの一人です。1978年から1988年に古河電気工業(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)でプレー。1986年にはACLの前身である第6回アジア・クラブ選手権を優勝。日本のチームとして初のアジア制覇に貢献しました。代表では、あのマラドーナが世界デビューしたFIFAワールドユース1979に出場。1985年にはFIFAワールドカップ1986メキシコ大会アジア地区予選のメンバーとして韓国代表と激戦を繰り広げました。当時、日本代表が、最もFIFAワールドカップ出場に近づいた試合でした。最近は成立学園サッカー部の指導をされる傍でテレビの解説者等を務められてきました。

名監督の苦い思い出とは?

女子サッカーの指導者として1989年から1998年までプリマハムFCくノ一(現・伊賀FCくノ一三重)の監督。1997年から1999年は日本女子代表監督も務められました。ただ、日本女子代表監督としての記憶は、栄光の記録だけではなく苦い思い出もあります。公式なプロフィールでは、宮内さんは1999年で女子サッカーとの接点が途絶えています。それについては、インタビューの後半でご本人が触れておられますので、ご覧ください。

インタビューの前半では、ちふれASエルフェン埼玉について、そして、なぜ、宮内さんが女子サッカー界に戻られたのかについて、お話いただきました。後半では、Jリーグがスタートしプロ化していった日本サッカーの歴史をリアルタイムで経験してこられた宮内さんから見た女子サッカーのプロ化に望まれること、女子サッカーの指導について、ご意見をいただきました。

このインタビューは、代表取締役会長として、レジェンドとして、日本の女子サッカーの未来に向けた決意表明です。

宮内

---就任から少し時間が経ちましたが、宮内さんから見たちふれASエルフェン埼玉は、どのようなクラブですか?

埼玉県の西部地区に35年前から歴史があり、女子サッカーを支えてきたクラブです。私がプリマハムFCくノ一(現・伊賀FCくノ一三重)の監督をしていた伊賀上野と似ているところがあり、地元の方が日焼けで真っ黒になりながらチーム作りをしている。そういう大事な歩みがあるクラブです。狭山市、飯能市、日高市は、田舎の良い雰囲気を持っている地域で、地元の方と歩んでいるのを強く感じています。COVID-19(新型コロナウイルス感染症)による中断期間は、美味しい食材、野菜を地域の方に持ってきていただいたり・・・嬉しいサポートがたくさんありました。

ひょっとしたら、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)による中断中に「日本の中でナンバーワンの準備ができたんじゃないかな」って思います。選手は段階的にトレーニングを積みましたけれども、初めは在宅でトレーニング、少しずつグループ分け・・・この辺りは都市部から離れ、緑にも囲まれて少し隔離されたような地形の地域です。ちふれ化粧品飯能工場の敷地内に専用グラウンドがあるのでこの環境を生かし、現場スタッフを中心に細かくルールを決め、万全の感染対策で活動してきました。

練習場

「ちふれは来年からプロなんだね。」って言われるんですけれど・・・(笑)。

---この大変な時期に、トヨタレンタリース新埼玉、聖カタリナ病院にパートナーに加わっていただくなど嬉しいニュースもありましたね。

訪問して新規開拓すること自体が失礼な時期でした。でも、今、女子サッカーの未来を知っていただくため、お話を聞いていただくことだけは、今でもできるかなと、訪問以外の方法も含め活動してきました。多くの方に、女子サッカーのプロ化に興味を示していただいておりました。「ちふれは来年からプロなんだね。」って言われるんですけれど「いや、ちょっと待ってください、そんなに簡単じゃないんです。」と、そういう話もさせていただきました。地域の皆さんの期待は大きいと思います。「プロ化になる、ならないにかかわらず、ちふれASエルフェン埼玉を応援する」という気持ちをいただくことも多かったです。「100年経ってもちふれは変わらないね」って言われるクラブを作らなければならないです。そのためには、選手が顔を出して(クラブに)関わっていくことが重要で、地域の人たちからは反応がありますね。僕らが行ってご挨拶しても「なんだ、この親父は?」って反応があって(笑)・・・選手たちの笑顔を見せると皆さんに喜んでいただいています。狭山市、飯能市、日高市の市長へ表敬訪問等を行って、行政の皆さんにも少しずつちふれASエルフェン埼玉の目指すところの説明をさせていただいています。クラブのことを知っていただく、クラブは何を考えていて、何をやろうとしているということをお伝えする・・・広報スタッフも一生懸命やってきました。

---宮内さんがちふれASエルフェン埼玉の会長になられた経緯・理由を教えてください。ヘッドコーチ兼GKコーチの山郷のぞみさんとはお付き合い長いと思いますが。

本庄第一高のGKをやっているときに私がスカウトして伊賀上野まで引っ張っていったというのが、お付き合いの始めになるわけで・・・山郷コーチに(私が監督をしていた)成立学園のサッカー部で3年間、GKコーチをお願いしていたので、それも含めて長いです。それもありますが、私は60歳になりました。高校サッカー(成立学園の指導)に20年間携わっていたので、後継者に引き継ぐ区切りとなるタイミングを探していました。年齢のことと、プロリーグのスタートとなるタイミング、その区切りでお役に立てればと思い、プロ化を目指す、ちふれASエルフェン埼玉に春から参加しました。これまでの女子サッカーの歩み、これから女子サッカーが目指すべきものとかを少しでも伝えていければと思っています。

選手6

私の指導の根本は女子サッカー。

---近年、男子のサッカーで実績を残された監督がなでしこの監督に就任されることが増えてきました。考えてみれば、男子の選手のTop of Topから女子のサッカーの指導に入られたのは宮内さんが先駆者だったと思います。先駆者として伝えられる経験がたくさんあるんじゃないかと思うんです。

僕は日本代表を辞めると同時に古河電工での現役生活を引退したんです。その後、古河電工からジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)でJリーグの指導者になっていくという使命感がなんとなくあったんです。そのとき、田嶋さん(現・日本サッカー協会会長)もいたし、岡田さん(現・今治FC代表取締役会長兼オーナー)もいたし・・・一緒にやっていく中で、あるとき、伊賀上野のサッカースクールでプリマハムの人たちと会うことになりました。そこで、女子のサッカーがあることを初めて知ったというか「実は6チームでL・リーグが始まる、もし良ければ女子のサッカーに携わってくれないだろうか」という話を聞いて監督になりました。ですから、私の指導の根本は女子サッカーになるんですね。今、振り返ると、女子の指導が初めにあって僕にはとても良かったなって思っています。

悔しい想いを胸に再び女子サッカーの世界へ。

---宮内さんは、成立学園サッカー部の指導やスカパー!での解説のお仕事に転向され、しばらく女子サッカーから距離を開けられた期間があったと思うのですが、プロ化に向けて動き出す節目の年に、再び女子サッカーへという想いはあったのですか?

L・リーグ(プレナスなでしこリーグの前身)6チームでスタートしたときにプリマハムFCくノ一(現・伊賀フットホールクラブくノ一)を指導者として見させていただいたのですが、L・リーグと全日本女子サッカー選手権(現・皇后杯全日本女子サッカー選手権)とOKIカップと3つとも優勝することができたり、(特に1995年は18戦18勝のリーグ全勝優勝)指導の大切さを女子の選手たちから学ばせてもらいました。

その後、日本女子代表監督を仰せつかり、ここでいろいろなことを感じさせていただきました。FIFA女子ワールドカップ1999米国大会の本大会に出場しました。これがシドニー五輪の予選を兼ねていたんですねですね。そのときに、全くというほど良い戦いができずにグループステージで敗退してしまい、シドニー五輪の出場切符も逃してしまったんですけれど、そこが、とっても後悔があるというか悔しいというか「本当は日本の女子のサッカーはこんなもんじゃないんだ」という気持ちを持ちながら、私は女子サッカーから離れていったんです。それで、私の先輩である佐々木則夫さんが(FIFA女子ワールドカップ2011ドイツ大会の優勝で)仇を取ってくれたということが言えると思うのですが、そこでもう一度、女子サッカーの世界に関わって戦ってみたいと思いました。

だから、今、「ちふれASエルフェン埼玉が強くなれば良いということだけではない」というか、もっともっと、日本の女子のサッカーが繁栄していけるんじゃないか、そこに少しでも力になれたらいいなって想いかな。

選手11

女子サッカーで指導を学びました。

僕ら男の子は、当時、コーチや監督にあまり言われると(指示を)聞かなくなりますけれども、当時の女子は逆で、指導者が引き出しをたくさん持っていないと途中で指導できなくなるところがありました。例えば「今の失点は何が悪かったんですか?」と質問されて、僕が「こうじゃないか?」「でも、こっちから人が来ているんで・・・。」とまた言われ「じゃあこうじゃないのか?」「でも、こっちからもこういうことがあって?」「じゃあこういうふうにしたほうがいいんじゃないか?」っていうような質問がもの凄くたくさん出てきて、自分に引き出しをたくさん持っていないと選手たちを納得させることができない、それがイコール指導力というか、そんなことをすごく勉強した感じがしています。

---引き出しに加えて、ディスカッションで選手の考えを引き出して、すり合わせていくことが必要だったのですね。

とにかく「今日の試合をやってどうだったのか?」という監督からの評価を聞きたい、評価してもらいたい、悪いなら何が悪かったのかを明確に知りたい、悪かったことは練習して次の試合に活かしたい、というような・・・選手の評価をしっかりするということが指導者としてとっても大切でした。日本女子代表監督のとき、試合を終えてホテルへ帰ると、自分の部屋の前に何人かの選手がうろうろ歩いていたりするわけですよ。それは何かというと、今日の自分のデキをすぐに聞きたいということだったりしましたね。

---宮内さんは1985年にFIFAワールドカップ1986メキシコ大会アジア地区予選を戦われています。韓国に勝てず「日本にもプロサッカーが必要だ」という声が初めて本格的に言われるようになった大会です。しばらくは日本サッカーリーグにお客さんがあまり入らなかった。そして1993年にJリーグが誕生してプロ化して日本のサッカーが強くなっていった。そんな時代を生きてこられた宮内さんのご経験から、来年の女子サッカーのプロ化に向けて望まれることがあれば教えてください。

サッカーを通して学ぶことがそれぞれの選手によってあると思うんですね。女子のプロリーグができましたプロ選手に明日からなります・・・となったら、どのような時間割を作って毎日をおくるのか。実は、(それだけでも)そんな簡単なことではないと思うのです。人として成長していくことに繋がらなければプロ選手になった意味がないと思います。重要なのはサッカーをやる意味を(選手が)どう考えるかですね。

そして「この選手はプロとして認めていいんじゃないか」という(クラブ側の)見極めも大事。「仕事しながらサッカーをしたほうがいいんじゃないか」という人もミックスされた(選手構成の)WEリーグでいいんじゃないかという気がします。Jリーグをお手本にしてやることもたくさんあると思うのですが「ここはWEリーグの方がいいじゃないか!」ということも出来てくるはずだと思います。

---例えばWEリーグには、Jリーグにはないプロ契約の最低年俸金額が定まっていますね。

経済的な面をしっかりして、その上で世界基準を見据えていく必要があります。サッカー自体も、日本独自のサッカーをもっともっと追い求めて欲しいです。僕らが少しでもお手伝いできるのであれば、指導者の育成もやっていきたいです。女性の指導者を強化していく必要がありますね。各クラブが中心となって、良い指導者を育成して、なでしこジャパン(の強化)に繋げていかなければならないと思います。

---選手の怪我に対してはいかがですか?私がお話をお聞きした選手や指導者、御父兄からは怪我のケアについて要望が多く出ていました。

僕も膝の手術を6回しているんですけれど、WEリーグは、優秀な監督コーチ以上にコンディショニングコーチ、フィジカルコーチ、トレーナーは強化しなければならない。女性特有の身体の管理もあると思いますし、前十字靭帯を断絶してしまうケースが本当に多い。それを予防のところから、もっと力を入れていかなければならないと感じます。ボールを使わないところでの身体の調整は大切です。専門的なボールを使ったサッカーのトレーニングは、その後に行えば良いくらいです。ちふれASエルフェン埼玉も、力を入れているのですが(メディカルチーフトレーナー、メディカルトレーナー、フィジカルトレーナー2名の合計4名体制)各クラブが力を入れていかなければならないところですね。

---今シーズンの目標や展望を教えてください。

クラブ全体で準備をしてトレーニングを積み重ねてきた結果を生み出しているシーズン立ち上がりです。良い準備と良い試合を生み出して、トレーニングの証になるためにも内容と結果を求めています。ただ勝つだけではない、目指しているところを感じながら勝ち点3を取っていきたいと監督も選手も話しています。まずはプレナスなでしこリーグ2部のチャンピオンになる。将来的にはクラブが100年続くように、理念がぶれないベースをここ5年くらいかけて作り上げ「なんだ、そんなサッカーで勝ったって、俺たちは応援しないぞ」と言われるみたいな、皆様から愛されるクラブ作りを構築できればと思っております。

(インタビュー:2020年7月30日)

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インタビューを終えて

シドニー五輪の出場を逃したことは、日本の女子サッカー史で常に語られる大事件です。私は、この件には触れないようにしようと思ってインタビューに臨みました。しかし、宮内さん、自らが切り出し、そのときの想いが、今も続いているという心情までお話してくださいました。「女子サッカーの未来を切り開きたい」という決意からだったのでしょうか、そのときの宮内さんの表情は現役時代のプレーのようにギラギラしていました。そして、怪我の防止については、一段と力強くお話しされました。

女子サッカーに関わる皆さん、サッカーを愛する皆さんの想いと知識、そして、毎日プレーすること、全てが繋がって、日本の女子プロサッカー・WEリーグは作られていきます。一緒に前進していきましょう。

ありがとうございます。あなたのご支援に感謝申し上げます。