「支配者よ、なぜだ?」-映画『ジガルタンダ・ダブルX』紹介とレビュー
本記事はインド映画『ジガルタンダ・ダブルX』の紹介とレビューです。
既に本作を鑑賞なさった方、またネタバレを避けたい方はレビューまで飛ばしてください。
概要
『ジガルタンダ・ダブルX』日本語公式サイト
主要出演者
シーザー:ラーガバー・ローレンス
キルバイ:S・J・スーリヤー
マラヤラシ:ニミヤ・サジヤン
ラトナ警視:ナビーン・チャンドラ
ドゥライ:サティヤン
監督・脚本:カールティック・スッバラージ
音楽:サントーシュ・ナーラーヤナン
あらすじ
注意:重大なネタバレを含みます。作品が長いのであらすじも長いです。
舞台は1970年代半ばのインド南部タミル・ナードゥ州。州首相が中央政界に転出するため、州政界では人気俳優兼政治家ジェヤコディと、ギャングや密輸組織との癒着を基盤とする大臣カールメガムの二人が次期州首相の座を争っていた。
長年の夢であった警官に内定し婚約者との結婚も控えていたキルバイは、殺人の冤罪により投獄されてしまう。ジェヤコディの弟ラトナ警視はキルバイに利用価値を見出し、カールメガム派ギャングのボスシーザーを殺害すれば復職を許すとの取引をキルバイに持ち掛ける。ちょうどシーザーが自身が主演を務める映画の監督を公募していたため、キルバイは映画監督としてシーザーのギャング団に潜入することに成功する。
映画撮影やシーザーの魅力に取り込まれたキルバイはシーザー暗殺を先延ばしにし続けるも、ある事件によりシーザーその人こそがキルバイを冤罪に陥れた張本人だと悟る。ついにシーザー殺害を決意したキルバイは、映画のクライマックスとして単身森に向かい、密猟団の頭領シェッターニを捕縛することをシーザーに持ち掛ける。圧倒的な強さを誇るシェッターニに単独で立ち向かわせることにより、シーザーを死なせようとの罠である。
二人はシーザーの故郷である森の村に到着する(シーザーは森に住まう先住民の出身である。彼はかつて密猟中に自ら屠った親象の子アッティニを逃がしてやったのだが、アッティニが復讐としてシーザーの兄を殺してしまうと、そのトラウマが原因となって身を持ち崩した)。同地では、ラトナ警視率いる警官隊がシェッターニ討伐を口実に村民に不当な監禁や強姦を働いていたことが明らかとなる。村から警官隊を引き上げさせるためにも、シーザーはシェッターニ率いる密猟団と戦わねばならなくなった。
その後森へ赴いたシーザーはシェッターニに敗れ重傷を負うも、キルバイはシーザーを救助してしまう。村に運ばれたシーザーは無事回復し、かつて自身が逃した象アッティニとも再会する。アッティニから許しを得たシーザーは改心し、故郷を救うために働くことを決意する。
再びシェッターニと対峙したシーザーは、見事彼を捕縛した。警官隊の撤収を確実なものにするためにも、シーザーはシェッターニの州首相への直接の引き渡しを要求した。要求が受け入れられるとシーザーは英雄として報道陣に取り囲まれ、州首相も先住民たちへの市民権付与を約束し、さらにはカールメガム大臣の次期州首相就任も確実かに思われた。
しかしシーザーの会見が終わったのち記録映像は全て廃棄され、カールメガムは州首相の寵愛を失い、シェッターニは解放され密猟を再開し、さらには村民を殺しつくすための警官隊が派遣された。州首相と密猟団は最初から癒着しており、森から搾れるだけ搾り取ったのち土地を中央政界にコネを持つ財閥に引き渡し、その見返りに州首相が次期首相の内定を得る計画であったのである。今や州首相にとって、シーザーと先住民は邪魔者でしかなくなったのであった。
新たな象の死体の発見を契機に、村で平和を祝っていたシーザーとキルバイも解放されたシェッターニと対面し、州首相の計画を知った。村を逃れれば森を奪われ、あるいは武器を執って警官と対峙しようとも大部隊には敵わないことから、村民たちとシーザーは村に残って平和的に警官を迎えることを決断する。シーザーはキルバイに記録の任を託し、「映画と観客」が正義を求めることを望んだ。
ラトナ警視率いる警官隊は村に突入し、太鼓を打ち鳴らして彼らを迎えた先住民たちを虐殺した。キルバイは虐殺の一部始終を記録するも、彼の逃走に気づいたラトナ警視に狙撃され斃れるのだった。
ところ変わって都市部では、シェッターニの正体はシーザーであり、ラトナ警視が彼を射殺したと報じられた。劇場では次期州首相の座を確保したジェヤコディの新作映画が公開されたが、シーザーの縄張りにあった映画館では『森への挽歌』と題してシーザーの冒険が上映された。焼き尽くされた村を訪れたカールメガムが、キルバイが残したフィルムを発見していたのである。
フィルムに収められたシェッターニの口から州首相の計画が明らかにされ、さらには警官隊がシーザーと先住民を虐殺する様までもが映し出された。銀幕のシーザーは、正義を求めるよう、そして政治家へ問うよう観客に語り掛ける。「支配者よ、なぜだ」と。
『森への挽歌』を観た観客たちは街頭へ繰り出し、次期州首相として祭り上げられたジェヤコディの大看板やポスターを壊しつくした。正義を求める民衆を前に、州首相率いる与党の覇権は失墜したのだった。
・この後も作品はまだ少し続きますが、プロットの本筋はここで終わるのであらすじもここで終わります。続きは劇場で観てほしい!!!
レビュー
総評
映画=メディアを通じて権力者の理不尽に対して立ち上がる民衆を描く『ジガルタンダ・ダブルX』は、芸術とジャーナリズムが不正義と戦うことを願い、そして民衆の力を信じる作品です。象をめぐる物語を通じて自然保護や先住民の権利をも訴える同作は、汎インドはおろか、世界中に響く普遍的なメッセージを有しています。警官を志していたキルバイが政治家の駒にすぎない彼らと殺し合うことの不毛さを説き、それでも権力の不条理と闘うことを選んだシーザーが映画=芸術、さらにはジャーナリズムの正義を語るクライマックスは、この上なく雄弁な自由へのスピーチです。
本作をこう評するとコテコテの「社会派」作品に聞こえますが(筆者はそういった作品も好きです!)、古典的西部劇とインド活劇が融合した本作は、エンターテイメントとしての質も非常に高いです。殺しと密売で儲けていたシーザーが正義の道を選び、警察のスパイとして彼の暗殺を企てていたキルバイもシーザーの姿に心打たれタッグとなる……アツいじゃないですか。音楽もキマっているので、劇場で鑑賞できるうちにぜひ足を運んでください。ただし、もちろん後述するように本作にも欠点はあり、例えばフェミニズム的観点が欠落しているように思われます。
以下では、複数のトピックに絞って本作をレビューしていきます。
政治的エンターテイメント
『ジガルタンダ・ダブルX』では、州および中央政府、そして警察による理不尽な暴力が批判的に表象されています。先住民の弾圧と森林資源の略取に、ポピュリスト的俳優政治家や、政権の宣伝装置と化した映画、王侯のごとく振る舞う首長など、本作がパロディ化している世の不正義は数多いです。もちろん、こうした表現の背景にはタミル・ナードゥ州における独自の文脈もありますが(劇場で購入できるパンフレットに解説があります)、先述の通り本作は汎インド的、全世界的メッセージを語っています。先住民の弾圧や国内外での植民地主義、政治家や警察の腐敗が世界的な現象であることは言うまでもありませんが、あえて例を挙げましょう。政権が地元の住民の生活や生態系を無視して森林を開拓する光景はインドネシアの新首都建設のようですし、あるいは先住民の虐殺とその歴史の否定にはイスラエルの姿が重ねられるでしょう。
本作の秀逸さは、こうした不正義への糾弾といわゆる大衆向け映画のエンターテイメント性を両立させ、さらには観客=民衆が立ち上がるよう訴えている点にあります。シーザーの冒険を追い、記録する芸術家キルバイの目を通じて英雄活劇の世界に引き込まれた観客は、その後劇中の観客とともにシーザーの映画を鑑賞することで、再び鑑賞者の立場に引き戻されます。しかしシーザーたちが被った不条理に憤り、「支配者よ、なぜだ?」と問いかける劇中の観客に自身の姿を投影する観客は、芸術やジャーナリズムが伝える不正義に対して立ち上がることは、鑑賞者=民衆の義務でもあると悟るはずです。映画は面白いだけではいけない、そして観客も作品を消費するだけでなく行動しなければならない。そうした信念のもと、スッバラージ監督は本作を制作したのでしょう
また、モディ現インド首相を美化する伝記映画が製作されたり、あるいは大作映画の中にナショナリスティックな語りが編み込まれていたり(あのRRRもそういう読みができます)と、インド映画界の近況を危ぶむ声があります。本作や後述する『モンキーマン』をはじめとする近年の政治批判的エンターテイメント映画は、インド映画のそうした状況に対するアンチテーゼとしても評価できるでしょう。
森の主体性
森と先住民社会を象徴する存在として象が活躍する本作では、自然保護の重要さも取り上げられています。単に保護されるべきものとして自然を語るだけではなく、主体的にシーザーと対峙し、そして許すアッティニの姿を通して、本作は自然と人間との相互関係を描いていると言えるでしょう。
先住民の描き方に関しても、やはり本作は彼らの主体性に気を配っています。彼自身先住民にルーツを持ちながら象牙の密売で儲けていたシーザーは先住民社会との関係を再構築していき、密猟や強権と戦うことを決意するだけでなく、最後には「リーダー」と呼ばれることさえ遠慮して一人の先住民として闘うことを選びます。ガンマン=英雄がやってきて哀れな先住民を救っていくだけで先住民には主体性が与えられない、そうした古典西部劇的、オリエンタリズム的典型を打ち破る構造もまた、本作の長所でしょう。
文字を読み英語を操る人々
上述の通り本作が描き出す社会的不均衡は多岐にわたりますが、その一つに教育を受けた人々がもつ構造的な優位性があります。シーザーや村民とともにキルバイがラトナ警視との交渉へ赴いた場面で、暗殺作戦の内容を悟られないように警視とキルバイはメモに書いてやり取りをします。その場の他の誰も識字能力を持たないからこそ可能になった戦術を描くこの場面は、現在まで続く教育面での格差を簡潔に伝えるものです。
また、ラトナ警視をはじめとする警察官たちや、映画監督を演じている間のキルバイ、あるいは政治家たちはしばしば英語(混じり)で会話したり、命令を下します。おそらく教育を受けていないシーザーが「今英語で何か言っていたな」と苦い顔をする場面があるなど、インドにおける教育の格差を意識させる描写です。そして、英語の使用が暴き出すのは教育の偏在だけでなく、暴力の所在でもあります。軍隊での公用語がヒンディー語と英語に限定されているように、英語を話す人々は往々にして国家の暴力を握る人々でもあるのです。この意味において、キルバイを打ち抜いたラトナ警視が "That was my best shoot ever" と英語で呟く場面は印象的です。
日本の観客の大多数はキルバイのような都市の人間であり、識字や言語が権力勾配の象徴となる瞬間があることを意識しすらしません。社会に潜む構造的不平等を暴露する簡潔な描写に、筆者は身につまされる思いがしました。
マイボーイたちの物語
ここまで散々『ジガルタンダ・ダブルX』を褒め倒してきましたが、本作には重大な欠陥があります。環境や先住民にも配慮した語りがなされている一方で、女性には主体性がほとんど見られないことです。例えばシーザーの妻マラヤラシは、キルバイにシーザーの過去を語ったり、シーザーの形見となる子を産んだりと重要なことを行いますが、彼女にシーザーの妻として以上の役割があるわけではありません。その膝の上でシーザーの父を看取ったり、アッティニの意を汲んでシーザーに伝えるなど、マラヤラシには「大いなる自然の母」的な女性へのステロタイプが当てはめられています。
このほかにも、キルバイが婚約者を忘れて(そこでは何の内的葛藤も描かれません)それ以前に交渉があったわけでもない先住民の女性と結婚するなど、どうにも女性のエージェンシーが希薄な場面があります。この記事のために本作のあらすじを書く際にも、ひょっとしたら女性抜きで書けるのではないかと思ったら本当に書けてしまいました……。
1970年代半ばの南インドを舞台とする西部劇ギャング映画のプロットで女性が大きな役割を果たさないことは理解できますが、同時に本作は現代政治批判や普遍的訴えのためにあえて時代錯誤をも犯している作品です(州首相が王笏を握るシーンなど。パンフレットに解説があります)。現代の観客に語り掛けるためなら時代錯誤をも厭わない監督であれば、例えばシーザーからマラヤラシへの暴力を批判的に描写するなりと、監督の関心が「フェミニズム以後」の世界にあることを示すこともできたはずです。本作はシーザーをはじめとするマッチョな「マイボーイ」たちの物語であって、女性は埒外にあるように感じられます。
あと……ギャング映画の根本に文句をつけるようで生産的な批判ではないのですが、いくら正義のために立ち上がったとはいえ、シーザーとギャング団、そしてカールメガム大臣は不当な利権のために癒着したろくでもない連中です。
『モンキーマン』と『ジガルタンダ・ダブルX』
日本で公開されたインドを舞台とする映画で娯楽と社会性を両立させた作品と聞いて、8月に公開された『モンキーマン』を想起した方もいらっしゃるでしょう。ここでは簡単に両作を比較してみようと思います。
『モンキーマン』日本語公式サイト
モディ政権を明確に批判し、インド社会一般の権威主義化、女性差別をも糾弾する『モンキーマン』ですが、『ジガルタンダ・ダブルX』とは重要な差異があります。前者では弾圧された者たちの中から一人の英雄が立ち上がり、暴力の限りを尽くして強権に立ち向かい、最後には彼が権力者と刺し違えて終わります。これに対して後者では、一人の英雄の活躍とその死で物語が閉じることはなく、彼に触発された民衆が権力の横暴に対して立ち上がります。権力の不条理を糾弾するだけでなく(それだけでも意味はあります)、あるいは一人の英雄による出口のない暴力に終始するのではなく、民衆による発展的な抵抗へと物語を昇華させたところに、『モンキーマン』と比べての『ジガルタンダ・ダブルX』の重要性があるのです。
ただし先述の通り『ジガルタンダ・ダブルX』はフェミニズム的に微妙というかそもそも女性問題に関心がなさそうな雰囲気があるので、その点『モンキーマン』とは対照的です。偶然にも相補的な関係にある両作の比較には、興味が尽きません。インド南部で活躍するスッバラージ監督と、主にイギリスで活躍するパテール監督の問題意識や環境の差異に着目して比較するのも面白いでしょう。
おわりに
ここまでありがとうございました。長文のレビューを書いておきながら、実は筆者はインド映画や現代インド情勢に詳しいわけではありません。補足すべき点や間違っている点などございましたら、ぜひご指摘ください。
『ジガルタンダ・ダブルX』が好きすぎて色々書きましたが、この記事で私が伝えたいことは単純です。劇場で観られるうちに観てください!よろしくお願いします。
そして、あわよくば、「支配者よ、なぜだ?」と問いかけてください。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?