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私たちの関心領域:塀を乗り越えること


本記事は、ジョナサン・グレイザー監督による『関心領域』を観た筆者によるエッセイです。オスカー受賞スピーチにてグレイザー監督も語った、「非人間化への抵抗」という軸で『関心領域』を読んでいきます。
なお、本記事は既に同作を鑑賞した読者を想定して書かれております。映画を観ずとも読み物としては成立するかと存じますが、ネタバレにはご注意ください。

『関心領域』は倫理を求める

塀の外の人々

『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』の著者でもある田野大輔先生も述べているように、『関心領域』は観客の理解力を信頼している作品です。ナチス・ドイツによるホロコーストという誰もが知る大事件を扱うにあたって、実地での残虐性を再び描く(ホロコーストの悲惨さは何度も語られてきました)のではなく、敢えて暴力の極致たるアウシュヴィッツ強制収容所の周縁に着目することで、何がホロコーストの動力となっていたかを考えさせる仕組みになっています。
実際に殺しを行った兵士やその上官だけでなく、彼らの妻や親類、使用人を含めて当時のドイツ社会全体の個々人がホロコーストを後押ししていた。これこそ、『関心領域』の観客が第一に理解することです。ナチ党による東方生存圏のプロパガンダに心酔するヘスの妻はもちろん、強制収容所からの押収品にあずかるヘス家の使用人を含めて、ホロコーストが生む利益に与る全ての個人に虐殺への責任があります。ホロコーストの実行者は単なる組織の歯車ではなく積極的な推進者であり、イデオロギーの実現に向けて行動した全ての個人も同様です。ナチ党とその上層部が「暴走」しただけでは、600万人のユダヤ人を殺すことはできません。当時のドイツ社会全体を構成する個々人の行動が、ホロコーストを可能にしたのです。

参考:田野先生へのインタビュー

『関心領域』におけるホロコーストは常に強制収容所の塀の中にあり、ヘスの家族からは遮断されています。ヘスの家族もナチ党の政策は把握していましたし、ユダヤ人囚人が働く姿を目にしていましたから、塀の向こう側から聞こえる叫び声、収容所から投棄されたであろう遺灰といった手がかりを通じて、塀の中で何が起こっていたかを知ることはできました。東方生存圏が何の上に成り立っているかを知るには、塀の中に関心を向けさえすればよいのです。しかしヘス家の人々の関心は塀の中の人間にはなく、ナチ党のプロパガンダが示すイデオロギーや、あるいは収容所が生む物質的利益にありました。むしろ塀の中の人間を人間と見做さなかった、つまり非人間化したからこそ、アウシュヴィッツでの暴力を積極的に無視できたのでしょう。強制収容所の塀は、人間と非人間を隔てる壁でした。暴力と不正義の明白な証拠に接してなお、ヘス家の人々は責任から逃れることを選び、快適な環境と殺人が生む利益にしがみついた。これが歴史映画としての『関心領域』が描いた事実です。
前述の通り、ホロコーストを可能にしたのはドイツ社会全体の個々人、すなわち塀の外の人々でした。ヘスの家族だけでなく、当時のドイツを生きた兵士や市民にも、「何かおかしいぞ」と気づく機会はあったことでしょう。しかしほとんどの「普通の」人々は、何もしないことを選びました。暴力から関心を逸らすことは、それ自体暴力への加担たりえるのです。

『関心領域』は誰に語りかけるのか

『関心領域』の射程は、事実としての歴史だけに留まりません。ヘスの家族にとってと同じように、もちろん観客からも塀の中は見えませんでした。私たちとヘス家の人々は、収容所に対して一種の相似関係にあるのです。ただし私たちは、ホロコースト以後の世界に生きています。このことを象徴的に表すシーンが、作品最終盤のアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館の清掃シーンです。
ヘスの家族と同じように、私たちもホロコーストの現場は見ていません。しかし私たちは塀の中で何があったかを知っていますし、何よりそこに関心があったからこそ劇場に足を運んだのです。たとえ暴力の現場を見なかったとしても、その歴史を知る私たちは何があったかを学び、想像し、そして二度と起きないように努めねばならない。ホロコーストの記憶を風化させないためにアウシュヴィッツ収容所は博物館となったのであり、記憶の継承と語り直しは『関心領域』の眼目の一つでもあります。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館は、世界遺産にも認定されています。UNESCO の公式ページには、「20世紀における、人類の同胞に対する残虐性の象徴」として同館が世界遺産として登録されたとあります。同館が人類共通の遺産である理由は、ただ歴史を事実として知るためではなく、人類による暴力の象徴としてこれを保存し、語り続ける必要があるためです。そしてその記憶・保存作業の象徴として、グレイザー監督は清掃シーンを取り上げたのでしょう。『関心領域』は私たちに向けられた作品であり、知ること以上の何か、すなわち積極的に学んで負の遺産を二度と産まないこと、倫理的であることを求めています。

参考:UNESCO公式ページ


現代のホロコースト=ナクバ

グレイザー監督のスピーチ

日本でもニュースになったオスカー受賞スピーチにて、グレイザー監督は以下のように述べています。


[製作中の]私たちの選択のすべては、現代を反省し、そして直面するためになされました……彼らが当時何をしたかではなく、むしろ私たちが今何をしているかに目を向けさせるためです。本作は、非人間化が何をもたらすのか、その最悪の結果を描いています。私は今ここに、非常に多くの無実の人々を紛争に追いやった占領による、ユダヤとホロコーストの乗っ取りを拒否する人間として立っています。
10月7日の犠牲者にせよ、現在進行形のガザへの攻撃による犠牲者にせよ、彼らはみな非人間化の犠牲者です。[非人間化に]私たちはどう抵抗するのでしょうか?
(筆者による翻訳。カッコ内は筆者による補足)

https://www.youtube.com/watch?v=YHkTZ-yeb44

監督が指す「占領」とはもちろん、イスラエルによるパレスチナの占領です。ヨーロッパからのユダヤ人の抹消を図ったホロコーストが民族浄化だったのと同様に、パレスチナからアラブ人(パレスチナ人)を排除しようとするイスラエルの行為もまた、民族浄化に他なりません。イスラエルの入植者たちは、先住の人々がいるにも拘わらずパレスチナを無人の地と見なし、75万人を下らないパレスチナ人を虐殺によって追放しました。1948年に起こったこの出来事を、アラビア語ではナクバと言います。これ以来75年間にわたってイスラエルは占領を続けましたが、その過程での暴力も民族浄化です。占領に耐えかねたハマースによる武装蜂起へのあまり非対称な「報復」もまた民族浄化の一節であり、第二のナクバとも呼ぶべきものです。
グレイザー監督が言う「非人間化」とはナチ党によるユダヤ人の悪魔化であり、そしてイスラエルによるパレスチナ人からの人間性剥奪のことです。パレスチナはイスラエル国家にのみ帰属するというイデオロギー、すなわちシオニズムを実現するためには、全ての先住民を追い出すほかありません。この追放を正当化するために、シオニズムの世界観ではパレスチナ人は人間以下の存在となるのです。現に、イスラエルの防衛大臣ヨアヴ・ガラントはガザの人々を「人間-動物」と呼び、ガザ地区への全面攻撃を正当化しています。なお現在、ガラント防衛大臣には国際刑事裁判所が逮捕状を請求しています。
そしてホロコーストは、シオニズム正当化の方便であり続けてきました。ユダヤ人はヨーロッパであれだけひどい目に遭ったのだから、パレスチナに安全地帯を建設しなければならない、加害者のヨーロッパはイスラエルに協力しなければならない、という論法です。しかしグレイザー監督も糾弾しているように、これは民族浄化を正当化するためにホロコーストを乗っ取る行為であり、ホロコーストの教訓の対極にあります。そもそも十戒に「汝殺すなかれ」とあるように、殺人の否定はユダヤ教の根本にあります。「テロ」の危険を煽ってイスラエル人の安全地帯を確保しようとする声高なイデオロギーには、東方生存圏の響きが木霊しています。
ホロコーストは比較の対象すらない負の遺産でしたが、今それが再現されつつあるからこそ、そしてグレイザー監督自身のアイデンティティであるユダヤがその正当化に使われているからこそ、監督は上のように語ったのです。

参考:ガラント防衛大臣による発言

https://www.timesofisrael.com/liveblog_entry/defense-minister-announces-complete-siege-of-gaza-no-power-food-or-fuel/

「私たちはどう抵抗するのでしょうか?」

この問いの後、グレイザー監督のスピーチは以下のように続きます。

アレクサンドラ・ビストロン・コロズィイェイチチェク。生前光り輝く行動を選んだように劇中でも光を放っていた少女、彼女の思い出と、そして彼女の抵抗に、本作を捧げます。
(筆者による翻訳。アレクサンドラとは、アウシュヴィッツの収容者に食料を運んだポーランド人レジスタンスである。劇中でリンゴを運んでいた少女が彼女)

同上

アレクサンドラのように非人間化の論理が設ける塀の中を直視し、そして乗り越えていくこと。監督がスピーチで訴えた抵抗とは、倫理への関心を持ち続け、そして不条理に対して積極的に行動することでした。オスカー受賞の場でのスピーチもまた、ホロコーストは糾弾してもナクバには沈黙を保つダブル・スタンダードへの抵抗に他なりません。
『関心領域』とは、倫理への関心を持ち続けること、非人間化の塀を乗り越えていくことを求める作品です。ホロコースト以後の世界に生きる私たちには、二度とホロコーストを起さないこと、快適な空間から足を踏み出して行動すること、その義務があります。ホロコーストの実行者たちは軍事法廷にかけられ、そして塀の外の加担者たちも歴史に責任を問われています。私たちもまた、無言の暴力を選んだ人々として歴史に問われるのでしょうか。
ガザ地区最後の都市ラファからの悲鳴が、西岸各地の占領地からの悲鳴が、私たちには届いています。今回のナクバは、衆人環視のなか起こってます。それでもなお、日本政府はイスラエルに何の制裁も課さないばかりか、パレスチナの国家承認さえせず、あまつさえイスラエルの軍事企業からの攻撃兵器輸入を検討しています。私たちが「何かおかしいぞ」と気づくべき時は、もう来ています。


民族浄化を止めるために

とはいえ民族浄化を止めるために何ができるというのか、と問う方もいらっしゃるでしょう。日本からできる行動をいくつか例示します。

デモへの参加

あなたが都市部に居住しているならば、最も簡単な政治意見の表明方法はデモへの参加です。デモというと恐ろしげに聞こえるかもしれませんが、最近のデモでは参加しやすさが重視されるようになってきているので、マッチョな雰囲気のものは減っています。プラカードを持って立っているだけ、行進に参加するだけでも大丈夫です。デモの情報に関しては、各種ソーシャルメディアで「地名 デモ パレスチナ」などと検索するか、以下のリンクをご活用ください。


イスラエルに対する経済的圧力―BDSへの参加

デモへの参加が難しい方でもイスラエルに圧力をかけられる行動に、BDS というものがあります。民族浄化を止めるのに経済的圧力が必要な理由は、『関心領域』で説明されています。
同作の劇中には、ヘスと実業家らがアウシュヴィッツの新焼却設備について議論する、民族浄化のビジネス的側面を描いた場面がありました。効率的な設備・装備なしには大量殺人は難しいですから、民族浄化には資金と技術的支援が必要です。そもそも、同作の原題は The  Zone of Interest でした。Interest という単語には、関心のほかに利益という意味もあります。大量殺人に資金を流し、そしてそこから利益を貪る人々もいるという意味で、原題はダブル・ミーニングになっています(東方生存圏ともかかっているので、トリプル・ミーニング?)
イスラエルによるパレスチナ人の民族浄化に関しても、資金と装備が必要なのは同様です。ドイツやアメリカ、日本をはじめとする国々がイスラエルに対して武器弾薬を供与しており、そして各国の企業も装備の売買や占領地でのビジネス、投資を通じて民族浄化を支援しています。そうした企業に対して
B Boycott ボイコット
D Divestment 投資引き上げ
S Sanction 制裁
の三つの手段で圧力をかける運動が BDS です。既に BDS は、プーマや伊藤忠商事といった大企業を動かしてきました。私たちの消費行動で企業倫理を問うことが、民族浄化の停止につながるのです。BDS の詳細については、以下のリンクからご覧ください。

おわりに

『関心領域』に関する記事は数多くある中で、グレイザー監督のスピーチにおけるメッセージを深堀するものがなかったので、勢いで書き上げました。現代における非人間化の塀を糾弾した監督のスピーチは、映画本編とも重なる私たちへの訴えです。塀を乗り越える選択こそ、アレクサンドラが光り輝いていた理由でした。

ここまでお読みくださった皆様にお礼申し上げます。デモや BDS は、パレスチナ人の非人間化に抗う手段の一例にすぎません。パレスチナ人への寄付によって、アレクサンドラのように塀の中へリンゴを落とすこともできます。

参考:寄付先をまとめたリンク

これより先の有料部分は、『関心領域』についての雑感など、記事の本筋とは関係ないおまけとなっております。筆者(学生です)へのカンパとしてご購入ください。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館の清掃と陳腐化

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