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障害者の母、介護の先生になる


#天職だと感じた瞬間
1973年に長女が誕生してからというもの、私はひたすら、障害児の母をした。
自分を責め、周囲からの無理解に苦しみ、医者探しに奔走し、てんかんの発作や、突然の不機嫌や、発達の遅れなどに悩み、人の目に怯え、一日一日をいかに終わらせるかだけを考えて生きてきた。
しかし、そのような過酷な生活でも、毎日の親子でのやり取りのなかで、培われていくものがたくさんあった。
それは私の強みとなった。
知らず知らずに培われた強み。

ゆっくり話すこと。
いちばんやさしい言葉を使うこと。
わかりやすく話をすること。
あたたかい声のトーンで話すこと。
見てわかるような工夫をすること。
つかいやすい工夫をすること。
あせらず、じっくり話を聞くこと。
怒らないようにすること。(まあ、たまには怒るけど)
世間に惑わされないこと。
他人と比較しないこと。
できないことでなくて、できることを見ること。
長い目で見ること。10年単位くらいのスパンで。
たくさんの問題が一度に押し寄せてきても、落ち着いて一つずつ解決していくこと。

知的障害、自閉スペクトラム症、てんかん、気分障害などの障害を持つ長女を育てる生活の中で、生き抜くために身についてきたスキルといえる。
長女の下に3人の娘を育て、シングルマザーとなった私は、ヘルパー2級の資格を取って特養の非常勤介護職になった。
身体介護は経験を積めばこなすことができるが、認知症介護は介護職にとって困難さを極める。
ところが、私は何の苦労もなく認知症の方とコミュニケーションをとり、楽しく過ごすことができた。
魔法のようだとも言われたが、何のことはない、家での長女とのコミュニケーションで鍛えられていたからだ。
このときにすでに、「天職を見つけた人」という見出しで、新聞のコラムに取り上げられたことがある。

キャリアを積んで、介護福祉士、介護支援専門員の資格を取り、60歳の時に、アメリカの臨床心理大学院日本校に入学した。
私は自閉スペクトラム症の研究をし、修士論文を書いた。
臨床心理学修士の学位授与式が終わってすぐ、大学院の秋学期の社会病理のゲスト講師のオファーがきた。
テーマは「高齢者」
修了式のすぐ後に、もう講師の仕事がきて驚いた。
講義をするクラスには、単位を落とした同期入学の知人の学生もいる。
何ともシビアなことではあるが、これがアメリカの大学院だからだろう。
講師をするまでは、自分は人前で講義などできないと思っていた。後ろの方で言葉少なに座っているというのが、いつもの私のポジションだったから。
ところが、講義をしてみて、教える楽しさに魅入られてしまった。

自分が長い間かけて、培ってきた知識、経験。
これらのことを、自分なりに講義をした。
学生からの講師評価は自分でもびっくりするほど。
「わかりやすかった。」
「現場の様子がよくわかった。」などの言葉が多く、勇気づけられた。
大学院の日本校が閉校になるまで、「高齢者」「障害者」「コミュニティ心理学」などをゲスト講師として講義した。
そして、さらに介護専門校の講師として、高齢者対象の研修、行動障害援助の研修などの講義を担当した。
特に力を注いだのは、人権と尊厳、多様性、インクルージョン、虐待、介護者のケアなどである。
これは、本当に介護の現場で働き、障害のある長女を育ててきたという体験をもとに、大学院を修了するまでに獲得してきた知識を駆使しての講義である。
これから、現場に出る人たちに知ってほしいこと、本当は介護職だけでなくすべての人たちに知ってほしいことを伝える仕事。
これこそ、私の天職だと思う。


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