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遅すぎるのは承知だが謝りたい

≪看護師さん、ごめんなさい≫

その看護師さんは、研修医時代からの知り合いで、若いころの写真はアイドルのようにポーズをとって笑っていた。機知に富み仕事もできた。同世代であり話も合った。40代で彼女は主任となり、ゆくゆくは師長となるはずだった。
自然気胸の患者さんに胸腔ドレーンを挿入することになり、彼女が介助についた。患者さんの脇にメスを入れるが、介助が一向にすすまない。彼女はうろうろ、おどおどするばかりであった。私はメスを入れた皮膚をガーゼで抑えながら、指示するが何も出てこない。私はイライラして、さらに矢継ぎ早に指示した。なんとか処置が終わってから「散々だった」と言わんばかりに、無言でその場を後にした。
それから、しばらくして彼女が若年性認知症らしいという噂が聞こえてきた。合点した。そして自分のした仕打ちを思い、自分を最低のろくでもない医者だと思ったが謝れなかった。何も以前のようにできないことが、どんなに不安で恐ろしかったろうか。
みんな、なんとなく遠巻きに接するようになり、知らないうちに彼女は病院を辞めていた。
彼女は気管支喘息で私の外来に通院しており、病院を辞めた後も通院してくれていた。喘息の発作はほとんどなく、「元気なの?」というような短い会話で診療は終わった。吸入薬を使用しなくても喘息発作がない状態が続いており、私は彼女にもう受診の必要はないと告げた。数少ない社会との、昔の仲間との接点であったのに切断してしまったのだ。本当にろくでもない医者だ。
その後、私は病院を移り、数年後ひとづてに彼女が亡くなったことを聞いた。どれだけ無念であったろう。もう遅いが天に向かって謝りたい。


≪医者になれなかった友人≫

医学部の教養課程を終わり、これから4年の専門課程に進もうという4月、彼女は自殺した。桜吹雪が舞う中でその話を聞いた。亡くなってもう1週間経っていた。
彼女の下宿で一緒に勉強した仲だった。卵しか食べるものがなく、大きな卵焼きを焼いて喜んでいた。関東出身なのに関西弁を使っていた。
3月春休みに入る前、旅行に誘われたが、曖昧に返事をしないままになっていた。携帯電話もメールもない時代であった。「じゃあ」と言って、それっきりになるなんて思いもしなかった。何か言いたいことがあったのか。自分に責任があるような気がしたが、それは傲慢であろう。
彼女の実家に弔問に行った。駅で降りたあと、気持ちを落ち着かせるために喫茶店に入ったが、そこで流れていた結婚式の定番ソングである『乾杯』。♪♪乾杯いま君は人生の大きな大きな舞台に立ち♪♪のフレーズが、彼女の最期の瞬間のようで、涙が止まらなくなった。
彼女の家で白い骨箱と彼女の母親を前にして、うつむいて泣くことしかできなかった。その後、何回か訪れたが、骨箱はそのままであった。彼女の姉から「あなたが来ると母が不安定になるので遠慮してほしい」という手紙が来た。何かしなければいられなかったのだが無神経であった。
あれから30年以上が経った。彼女の死を止めることはできなかったであろう。しかし、近くにいながら何も気づかず、何も関われなかったことは、やはり負うべきと思っている。私も年をとったよと天に向かって言いたい。




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