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「もう何もしないでください」キュリー夫人の最期

≪毅然と生きたマリー・キュリー≫

小学生時にキュリー夫人の伝記を読んで、2回もノーベル賞を取ったんだ、えらいな、で終わってはいけない。大人になって、詳しい伝記を読むと、苦難の中、毅然と生きたマリー・キュリーに圧倒される。
ぼろ小屋としか言えない研究室で、夫と共に膨大な時間と労力を費やして得たラジウムの製造法について、夫は生活費にも窮していたので特許を取得しようとするが、キュリーは 「科学の精神に反する」として、決して応じなかったという。科学の真実は個人が所有するものではないというのだ。
38歳の時、夫が馬車に引かれ急死してしまう。その後、夫の教え子と親密になるが、相手は妻子ある研究者だった。何者かに机の引き出しから手紙を盗まれ、関係をマスコミに暴露された。ノーベル受賞者の大スキャンダルである。「ポーランドの田舎娘がフランス人の家庭を壊した」とマスコミと世間の格好の標的となった。自宅に石を投げつけられ、研究も中断された。相手の男性は不問である。そんな時、2回目のノーベル賞受賞の知らせがくる。しかし、スキャンダルの真っただ中であった。スウェーデンのアカデミー会員から、受賞にふさわしくないだの、受賞式の出席を見合わせてはどうかという手紙が来る。その時のキュリーの返事が最高だ。「アカデミーの意図を推測するのは私の義務ではない。私の仕事と私の私生活とはまったく別の話である」として、病気をおして授賞式に出席し、堂々と受賞講演を行った。背景にある苦難がいかほどであったか想像すらできない。
エピソードは山ほどある。こんなに毅然と生きた科学者がいるだろうか。アインシュタインも「名誉を得ても損なわれなかった唯一の科学者である」と評している。
長年の放射性物質の研究生活で被爆したため、目はほとんど失明し、皮膚はぼろぼろとなり、骨髄も障害を受け再生不良性貧血のため66歳で死亡した。意識がもうろうしてくるなか、医師が注射をしようとしたとき、はっきりと「もう何もしないでください」と言い、翌日亡くなったという。
キュリーの研究ノートは100年経っても放射線を出し続けていて、鉛の箱に入れられている。
お金や栄誉に翻弄されず、生涯、科学の真実のみを求めたのは、彼女が女性であったことが大きな要因であるように思う。私の机の横には粗末な研究室にいるマリー・キュリーの写真が飾ってある。

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