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〇 ディスコ・プロデューサー、ミーコ83歳で死去

〇 ディスコ・プロデューサー、ミーコ83歳で死去
 
【Disco Producer Meco Dies At 83】
 
引退。
 
1977年、映画『スターウォーズ』のテーマ曲をディスコ調にアレンジして全米ナンバー・ワンにしたミーコ(本名、ドミニコ・ジョセフ・モナルド Domenico Joseph Monardo)が2023年5月26日頃から6月中旬までに死去、6月20日、荼毘に付された。フロリダ州の自宅マンションで死去していた。83歳だった。正確な死去日は特定できていない。
 
ミーコは、1985年には音楽業界からきっぱり身を引き、普通のビジネスを行っていたという。
 
最終的には、フロリダのマンションに一人で住んでおり、たまたま友人が訪ねて、死去しているのを発見したらしい。ほとんど友人もいなかったらしい。
 
フロリダ州タマラックのウエッブニューズが、ミーコ・モナルド(Domenico Joseph Monardo)を6月20日に火葬したと公表している。
 
ミーコは、1985年(46歳前後)音楽業界引退後フロリダに移住。最初の3年は、ゴルフ以外はなにもやっていなかったという。いわばリタイア・ライフを満喫していたのだろう。その後、ビジネスをてがけたという。
 
この情報は、2023年6月22日にフェイスブックで「ディスコガイ・ディスコ・ディスコ」というストックホルム在住のディスコ・ミュージック・マニアが、一時期ミーコとフロリダ時代にルームメイトだったというランディー・ビーンからもたされた情報として、「ミーコ・モナルドが数日前に死去した」という話を公開したところから広まった。
 
この情報源のランディーは、ニューヨーク時代にレコーディング・エンジニアとして活躍し、ミーコと1970年代によく仕事をした人物。その後、2人とも、ニューヨークからフロリダに移住し、フロリダで一時期ルームメイトとなっていた。そのランディーが数日前に、ミーコが住んでいたマンションの管理人からミーコが最近見えないとの連絡が来て、様子を見に行ったらしい。ミーコはここで一人で住んでおり、姉妹兄弟らともほとんど音信不通だったという。管理人はランディーに、誰か親戚あるいは親しい友人などの身寄りがいないかを尋ねるために電話をしてきた。しかし、ランディーも、ミーコの兄弟姉妹についてはまったく情報がなく、親戚筋をたどるのにも一苦労したという。
 
その後、フロリダのウェッブサイトがドミニコ・ジョセフ・モナルド(83歳)を6月20日に火葬・荼毘にふしたという情報をだした。
 
https://www.news-press.com/obituaries/fnp108119
 
ただし、正確な死去日は特定できない。ウィキには5月26日とあるが、この情報源はまだない。おそらく、この5月末から6月頭に人知れずに亡くなったのだろう。
 
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ただし、ミーコが1985年を機に音楽業界を引退していたせいか、この訃報は、音楽業界誌などにもまだまったくでておらず、SNSなどで彼を知る人物が追悼の意を表しているだけだ。
 
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評伝。
 
ミーコは、(本名、ドミニコ・ジョセフ・モナルド Domenico Joseph Monardo)、1939年11月29日ペンシルヴェニア州ジョンソンバーグ生まれ。3人の姉妹、1人の男兄弟がおり、5人兄弟姉妹のひとり。両親はイタリア人。父が家族の中では唯一楽器、トロンボーンをプレイ、マーチング・バンドの一員でもあった。ほかにもウエディングやパーティーなどで演奏していたという。父の影響でミーコ本人も音楽に興味を持つようになり、楽譜が読めるように教えたという。それが功を奏し、のちに楽譜を読むのが得意となり、ニューヨークのスタジオ・セッションなどでも、ほぼ初見ですぐに演奏ができるようになった。
 
17歳のときに奨学金を得て、イーストマン・スクール・オブ・ミュージックに入学。ここで基本的な音楽理論を学んだ。音楽楽興を卒業後、米軍に入隊、米軍の音楽隊に入り、約3年米軍でトロンボーンを吹いていた。
 
1965年、軍を除隊後ニューヨークに移住。その時点で唯一知っていた音楽関係者がなんとまだ無名時代のチャック・マンジョンヌだった。(のちに、「フィール・ソー・グッド」のだいヒットを放つ)彼はイーストマン音楽学校でクラスメイトだったのだ。彼が一足先にニューヨークに来ていたので、彼を頼ってニューヨークでの生活を始める。当初、約3年は食うのにも困ったが、なんとか生きながらえた。
 
ニューヨーク時代にロッド・マクブライアンというソングライターと知り合い、ルームメイトとなるが、その彼は楽譜が書けなかったので、自分が思い描く曲を、ミーコが楽譜に起こすようになり、しだいにそれだけでなく、アレンジなどもするようになった。
 
少しずつニューヨークの音楽業界でトロンボーン奏者、アレンジャーなどとして名前が知られるようになると、同業のハロルド・ウィーラーという人物と知り合い、いろいろと仕事をするようになる。
 
1973年、ミーコは友人のトニー・ボンジョヴィらとともにDCA(ディスコ・コーポレーション・オブ・アメリカ)を設立。そこで発掘した女性シンガーがグローリア・ゲイナーだった。


左・グロリア・ゲイナー、右・ミーコ


 
グローリアの作品は瞬く間にディスコ・フィールドで大ヒット。さらに、ミーコは自身名義のアルバムを出すようになり、1977年当時大ヒットし始めた映画『スターウォーズ』のテーマをディスコ調にしたものを発表。これが全米1位になる大ヒットとなり、ミーコは売れっ子ディスコ・プロデューサー、アーティストになった。
 
エンジニア、共同プロデューサーのトニーはこのときの印税から10万ドル(約3000万円)でニューヨークに新しいスタジオを設立。そのスタジオの名は、「パワーステーション」という。このスタジオは以後10年ほど、ヒット・スタジオとなり、次々と多くのヒットが生まれた。
 
ミーコはアーティストとして『スターウォーズ』に続くアルバムをコンスタントに出していたが、『スターウォーズ・クリスマス・アルバム』を出そうというときにシンガーを探していた。なかなかどんぴしゃなシンガーがいなかったところ、トニーが「俺のいとこのわかいやつで歌がうまい奴がいるから試してみるか?」というので、試してみたところ、「うまいなんてもんじゃなかった。こいつはスターだ!」と膝を打った人物が現れた。それが、誰あろう、ボン・ジョンヴィだった。
 
ミーコの『スターウォーズ』が大ヒット以降、彼は多忙を極めるが、同じタイプのレコードを作ることに飽きていて、結局、1983年頃から事実上引退。1985年には、フロリダに移住する。
 
ミーコのアルバムは当初はディスコ・レーベルとして一世を風靡するカサブランカ・レコーズ(ミレニュウム・レーベル)、RSO、アリスタなどに10枚以上の作品がでている。
 
しかし、音楽業界から足を洗ってからは、ほとんど、彼に関する情報はでてこなくなった。
 
こうして、今回久しぶりに届いたニューズが訃報だった。
 
【参考資料】
www.disco-disco.com
 
OBITUARY>Meco, Monard, Domenico Joseph (11/29/1939 – around 5/26 – by 6/20, 2023, 83 year old)
 
 
 
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