自己否定の否定。


仕事の面接に落ちた。


面接自体はわりと手応えを感じていた。が、事前に何の予告もなしに突如行われたSPI試験はボロクソだった。


国語はまずまずだったからまだいいけど、数学が特にひどかった。それはそうだ。昔から僕は算数という教科が大嫌いなのである。
そんな僕が、何の予習もなしに解けるわけがなかった。もう、マークシートをジグザグに塗り潰すしかなかった。


まぁ、落ちたところで精神的にダメージはない。就活をしていれば試験の1つや2つ落ちるのは当たり前だし、そもそもどんな試験をやるかも予告してくれなかったその会社の落ち度だ! と責任転嫁もできる。


今までの「自信がないくせに妙にプライドがある」僕だったら、何かに落選した、たったそれだけの事実だけで深く傷つき、しばらく布団から出てこなかっただろう。かつてはそのくらいの豆腐メンタルの持ち主だった。


布団から這い出て、何事もなかったかのようにこれを書いているだけでも、昔の自分からしてみれば凄いことなのである。


しかし散々このnoteにも書いてきた通り、僕は自己否定が激しい。自分はろくな人間じゃないと、救いようのない世の中にとっての害悪であると、表には出さないが腹のどこかで思っている。そこだけは昔と変わっていない。


この精神を肥大化したまま、それに従っていくのならこのまま引きこもりコースまっしぐらである。何ならリストカットもやりかねないかもしれない。でもそうなるほど病んでもいない。


僕は、開き直ったのである。


はいはいもう僕はくそですよと。どうしようもない人間ですよと。感情のある燃えるゴミですよと、笑うことにしたのである。そうなるとどうなるか。


失敗を恐れなくなり、変にポジティブになったのだ。どうせいつか皆死ぬんだから、周りの目なんぞ気にしていても関係ない。いつか死ぬなら、ゴミはゴミなりに好きなように生きて派手に散ってやろうじゃないか!と。


地面にめり込むように沈んで、沈んで、沈み込んでいき、気づいたらブラジルに頭を出していました、という状態だ。


よくTwitterで、「失敗する人の特徴」などのツイートの欄に、自己否定をする人と書かれている。もしかしたら自己啓発本にも同じようなことが書かれているかもしれない。確かに自分を愛することは正しいことだ。自分を愛することで、さまざまな影響から自分を守っていられる。


けどその、自分を愛する、ってのがなかなか難しい。誰しもコンプレックスは持っているものだし、人類全員がポジティブな人だけってわけでもないし。


ネガティブはそう簡単にポジティブにはなれない。自分を愛して!と論理的に説明されたとしても帰ってくる言葉は大抵「できるんならとっくにしてるわ!」である。そんなのわざわざ言われんでも分かっているのだ。


むしろその類いの説法はどんなに良かれと思ってやっても、自己否定をしているうちは失敗続きですよ、つまりあんた終わってますよ、とその人たちの息の根を止めにかかっているといっても過言ではないのだ。それくらい、ネガティブな人にとって自己啓発の類いは煩わしいものだ。


というか、自己啓発なことを説く人は、大抵ポジティブな人が書いているのだ。栗原類にでも説かれないかぎり、そこに説得力なんぞ生まれないのは当然だ。


だから世の中には物語があるのかもしれない。
自分と同じようなろくでもない登場人物たちが、ろくでもないなりに苦しんで、もがいて、どうにか生きようとしている。答えを見つけ出そうとしている。その姿は、理屈で並べ立てられるただの言葉の何倍も説得力があり、心を揺さぶられる。


こんな自分でも、生きてていいんだと。


そうやって、力業でポジティブになるのではなく、ろくでもない、自己否定ばかりする自分を好きになるのだ。


自己否定を否定することは、算数が嫌いならお前の人生終わりと言われてるのと一緒なのだ。


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