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八木直樹先生に『戦国大名大友氏の権力構造』の読みどころを解説していただきました

皆さまこんにちは、戎光祥出版の丸山です。

3月の新刊、『戦国大名大友氏の権力構造』につきまして、著者である八木直樹先生に本書の意義・特徴・読みどころを解説していただきました。
本書の書誌情報等については、リンク先をご覧ください。

それでは以下、八木先生により自著解説をお楽しみください。
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 複数国を支配下においた大大名・戦国大名大友氏の権力構造の実像解明を試みた本書の構成は、序章+既発表論文6本(第一部第一章~第四章、第二部第一章・第二章)+新稿3本(第二部第三章・第四章、終章)から成り立っています。
 
 まずは、既発表論文の章を紹介します。
 第一部「権力中枢と領国支配の構造」は、戦国大名研究としてはオーソドックスな内容でしょうが、実は近年の大友氏研究ではこうした研究はあまりありません。第一章「当主判物の発給過程と年寄制」・第二章「権力中枢における取次と当主側近の役割」では、権力中枢に存在した「年寄」(「加判衆」)と当主側近にスポットをあて、彼らの権限・役割を明確にしました。第三章「方分による取次と国人」・第四章「領国支配における検使の役割」では、主として新たに進出した国々において設置・派遣された「方分」と「検使」を検討しています。権力中枢にある年寄が国単位で務めた地域別担当者である「方分」は、国人との取次を担いました。国人との取次役を大名側が国単位で設定した点は、東国大名と「国衆」との従属・統制関係とは全く異なります。「検使」とは臨時的に派遣される使者です。「方分」と「検使」は、いわば大友氏権力中枢と広大な領国各地の国人とを結びつけた存在です。ここでは、現地における地域支配機構を設置しない戦国大名大友氏の独特でかなり緩い領国支配のあり方を論じています。

 第二部「宗麟・義統と豊後府内・臼杵」は、大友氏全盛期の当主宗麟・義統父子とその城下町豊後府内・臼杵について検討しています。大友氏の伝統的な本拠地は、当該期有数の戦国城下町・豊後府内です。しかし、宗麟は、弘治2年(1556)に起こった家臣の謀反を契機に臼杵へと城下町を移転します。第一章「城下町移転後の豊後府内と臼杵」・第二章「臼杵移転の背景と家臣団」では、宗麟が行った臼杵への城下町移転の背景と移転以降の当主居所の所在について考えました。大都市府内ではなく臼杵を拠点としたこと、臼杵移転後も府内を居所とした時期もあった宗麟・義統父子の不思議な動向を詳細に論じています。宗麟がいたのは臼杵?府内?という疑問から始めた研究です。

 以上が、既発表論文の内容紹介です。ここからは全554頁のうち224頁を割いた新稿3章の内容を紹介したいと思います。これ以上ないぐらい細かな検討にこだわった結果、新稿それぞれが一般的な論文の倍の分量となってしまいました。

 第二部第三章「軍事的動向からみた耳川大敗後における義統・宗麟の居所」では、天正6年(1578)11月の耳川大敗後の当主義統と隠居宗麟の居所について検討しました。この時期の義統・宗麟に特徴的な行動が、豊後国内において頻繁に出陣・在陣を繰り返していることです。大友氏当主の出陣は非常に珍しいことです。一方で、従属国人から救援要請されたにもかかわらず、決して国外出陣しない彼ら父子の行動は、他の戦国大名と比べればかなり変わっているのではないでしょうか。本章では、国内史料と宣教師史料とを突き合わせながら、彼らの軍事的動向を詳細に追い、曖昧であった彼らの居所がどちら(臼杵・府内)にあったのかを明らかにしています。
 第二部第四章「二頭政治期における義統と宗麟の関係」では、義統・宗麟の二頭政治について検討しました。義統が家督を相続した元亀元年(1570)頃から宗麟が死去する天正15年(1587)5月までは、当主義統と隠居宗麟とが共同で統治にあたる「二頭政治」期です。「崩壊期」「衰退期」と評価される義統期は、実証的な研究はほとんどありません。いわば大友氏研究における研究の空白地帯です。しかも、宗麟のキリスト教受洗、それをめぐる父子の確執などは、イエズス会宣教師が記した史料を基に叙述されてきた問題があります。本章では、こうした宣教師史料による先入観を極力排除した二頭政治17・18年間の実像を丁寧に叙述しました。
 終章「戦国大名大友氏と室町幕府」では、大友義長・義鑑・義鎮(宗麟)が幕府・朝廷から獲得した守護職などの幕府官職と官位・偏諱などの栄典に着目し、その獲得交渉を詳細に検討しました。義鎮期に関しては、彼が肥前・豊前・筑前守護職、九州探題、左衛門督、相伴衆といった官職・栄典を獲得した事実が強調されるだけで、それを獲得した時の状況までは詳しく研究されていません。旧大内領国の守護職補任をめぐる毛利氏との外交の駆け引きに関する研究もなかったと思います。さらに本章では、義鎮の生母・義統の偏諱授与の時期に関する言及や、「室町・戦国期に上洛した大友氏家臣」「豊後に下向した公家」の一覧表など、今後の研究の基礎となるデータも提示しています。

 既発表論文については、本書に収録するにあたって、事例の追加、最新の研究成果を追加するなど、大幅な加筆・修正を加えています。史料の網羅的収集を心掛けた結果、例えば、第一部第三章の「方分」の旧稿に掲載した「【表①】大友氏当主発給年頭・八朔・歳暮礼状一覧」では171件だった事例が、本書では218件と大幅に増加しています。また、旧稿では紙幅の都合で肥後以外の「大友氏当主発給文書添状発給者一覧」は省略しましたが、本書では筑後・肥前・筑前・豊前の一覧表も掲載しました。方分比定人物にも修正があります。細かな所では、天文3年に失脚したとされる年寄吉岡長増のその後の動向(p289)などの新知見も適宜加えています。
                           (八木 直樹)

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