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7.浅井菊子の苦悩

淀の方様、茶々などさまざまな呼び名をもつその女性は、本来の名前を浅井菊子という。浅井長政と織田市の間に生まれ、浅井姓を名乗っている。今は太閤豊臣秀吉の妻であり、秀吉の死後はその子秀頼の母として大坂城に暮らしていた。

関ヶ原での天下分け目の決戦があり東軍が勝利したのはほんの数ヶ月前のこと、徳川家康が大坂城までやってきて、西軍の首謀者は石田三成であって、豊臣家は傍観していたにすぎず、淀殿と秀頼は西軍に関与していないと明言した。

「そうでございますな」
家康の目は恐ろしく光っているようにも見えるが、菊子にはそうは見えていない。

考えてみて欲しい。
彼女は生まれた時から男どもの争い事に巻き込まれて、自分の両親も兄弟も殺されたうえに、時の権力者である32歳も年の離れた男に嫁がされるのである。

血筋には織田家、浅井家のサラブレッドであるものの、当時の女性に何の権力もない。時代に翻弄されながら生きながらえていくのが精一杯なのだ。

関ヶ原の戦いで石田が勝とうが徳川が勝とうが、勝った者にすがるより他はないのである。

『くちおしや』

菊子はそう思わない日はなかった。それは当たり前だろう。どうしてこんなにも不幸な目に遭わされねければならないのか。

関ヶ原のあと、戦後処理はすべて家康の手によって行われた。いままで政治の中心であった大坂城に五大老五奉行はもういない。まわりは家来ばかりで、もはや淀殿に何か指図ができる者はおらず、長年の我慢の末に手に入れた自由の身であった。

大坂城には秀吉が貯めに貯めた金塊が眠っている。この財産を相続している秀頼がいるのだから、もう生活に困ることはない。この子が立派な大人になって武将として育てば、それで良い…それだけが願いである。

菊子は31歳になっていた。その子秀頼はまだ7歳である。
西暦1601年のことである。

ところが、今まで感じたことのない気が滅入るような日々が続く。体調が良くない。目眩がしたり、頭が痛いのだ。食事もほとんど喉を通らない。

やっと手に入れた自分の自由な時間だというのに、あとは残された莫大な遺産で我が子を育てるだけだというのに、とにかく気が滅入ってしまう。生きる気力が起きない。

寺院に寄付をしたり、再建したりと、神仏にすがる思いで遺産の一部を使った。そうしてでも自分の生きる価値というものを見出したいのか、今まで我慢を強いてきた自分の人生を取り戻したかったのか。

わからない。

朝から気鬱ではあるが、女として身だしなみは整えたいと思う。鏡の前へと向かい髪をとくよう周りのものに申しつけたが、いっこうに始まらない。

「どうしたの」
「はい、申し訳ありません、つげの櫛がみつからないのです」

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