ずるい言葉を解毒しよう――森山至貴『10代から知っておきたいあなたを閉じこめる「ずるい言葉」』(WAVE出版)

もう30代も終わりに差し掛かっている自分だが、10代の頃にこんな素晴らしい本を読めたらと思った。いや、今からでも遅くない。今度は大人としてここにある「ずるい言葉」を使わないように心がければよいのだ。

本書は、「ずるい言葉」、それが発せられるシーン、その言葉のどこが・なぜ「ずるい」のか、その言葉が発せられた背景にある社会・文化的な問題を専門用語と関連付ける解説で構成されている。全部で29のシーンがある。いくつか目次から「ずるい言葉」を拾ってみよう。

「あなたのため思っていっているんだよ」
「そんな言い方じゃ聞き入れてもらえないよ」
「どちらの側にも問題あるんじゃないの?」
「はっきり言わないあなたが悪い」
「もっと早く言ってくれればよかったのに」
「あれもこれも言えないとなるともうなにも言えなくなる」
「友達にいるからわかるよ」
「身近にいないからわからない」
「傷ついたのもよい経験だったんじゃない?」
「私には偏見ないんで」
「悪気はないんだから許してあげなよ」
「いまはそういう時代じゃないからね」
「差別なんて絶対になくならない」
「差別があると言っているうちは差別はなくならない」
「これは差別ではなく区別」

…どうだろうか。ここにある「ずるい言葉」を言われたり、あるいは自分で言ってしまったり、したことはないだろうか? あるいは、世の中を見ても、このような「ずるい言葉」が四方八方から飛んできていないだろうか?

個人的にプッシュしたい「ずるい言葉」分析はいくつもあるが、ここでは「そんな言い方じゃ聞き入れてもらえないよ」を取り上げたい。この言葉は、そもそもは正しい/間違っているという正しさについての軸に沿って、間違い(不正義)を指摘する・告発する言葉に対して、「言葉の適切さ」という別の軸を持ち出し、告発者の正しさをずらし、うやむやにしている。「ずるい」のは別の評価軸を持ち出すだけではなく、「言葉の適切さ」という新しい軸は、不正義の指摘・告発を受けた側が、恣意的に決めることができるということにもある。二重にずるい。

本書では、地毛が茶色い生徒に「地毛証明書」を出すように迫る教員がいて、その教員に向かって「余計なお世話だって言ってやろうかな」と言った生徒に、友達が「そんな言い方じゃ聞き入れてもらえないよ。証明書を出したくないならちゃんとお願いしないと」と返すやり取りになっている。

例えば生徒‐教員といった非対称的な権力関係(どちらかが強い、どちらかが弱い)において、弱いものが強いものにその不正義を質すとき、強いものが弱い者の「質し方=言葉の適切さ」を一方的に評価し、質問の内容がたとえどんなに正しくても、不適切な言葉であったら聞く必要はない、と判断できてしまう。正当な主張であるべきはずのものが、強いものに聞き入れてもらう「お願い」へと変質してしまう。なぜこんな評価軸の変換、主張から「お願い」への一方的・勝手な変換が行われるかと言えば、それはもちろん強いものにとって不都合な異議申し立てだからだ。ちゃんと答えることができない問いは、ちゃんと答える必要がないものへと恣意的にずらしてしまえば、そもそも「答える必要性」が抹消される。筆者はこれをトーン・ポリシングと結びつけ、その「ずるさ」を解説している。

「スポーツに政治を持ち込むな」「芸能人は政治的発言を慎むべき」というのは、最近よく聞く言葉だが、これもこの「ずるい言葉」の親戚である。政治的な主張そのものの正しさを問うのではなく、その主張がなされる場所や主張をする人へと軸をずらして、不適切だと言う。こう「非難」するものは、たいていが力のあるもの(マジョリティ)である。他方、マジョリティからなされる政治的発言は「非難」されることなく適切なものとして流通していく。発言内容そのものが検討されるのではなく、発言者のポジション(場所、人、力のあるものが決めた「適切な言葉遣い」)で良い・悪いが判断されてしまう。

「あれもこれも言えないとなるともうなにも言えなくなる」という「ずるい言葉」からは、PC(ポリティカル・コレクトネス)やコンプライアンス(法令順守)に「縛られて」「窮屈な」番組制作の愚痴を言う、芸人やタレントの姿が浮かぶ。コンテンツが暴力的・差別的であると指摘され、その指摘は理解しつつも、自分が暴力的・差別的なコンテンツを作り続けたいことを(隠そうとしながらも)漏らしている。縛りがゆるいネット番組に出て行っては、より暴力的でより差別的なコンテンツを作っていることもあるので、本音ではもっと暴力的に・もっと差別的にやりたい、ということなのであろう。「笑いは本来的に差別的なものだ」とは中島らもも言っていたが、そう開き直るのか、それともプロとして暴力的でもない差別的もない笑いを考えるのか、どちらが良いのか。筆者も言う通り、本音と建前であったら、建前の方が大事だ。建前は、様々な人間が互いを尊重しつつ社会を営んでいくために作り上げてきたもので、これを軽視するのは人間の知性に対して不誠実であるからだ。

と言うように、29の「ずるい言葉」のずるさが、非常にわかりやすい(小学校高学年ぐらいでも読めて理解できる)言葉で分析され、「解毒」されていく。目次に目を通してみて、そこにある「ずるい言葉」のどれか1つにでも、モヤモアしたりイライラした記憶がある人は、ぜひ手に取ってもらいたい本である。(2020年10月2日シミルボン掲載)

追記(2024年6月8日)

「ずるい言葉」がどうしてずるいのか。論理的な水準であれば説得力がない論点ずらしであっても、いわれたその場で落ち着いて反論できるかというと、自信がない。二重過程理論っぽくいうと、直感的(ファスト)な判断に訴えかけるものだから、ずるい言葉が「便利に」使われるのではないか。おおむね、共同体のマジョリティの安定に資するように誘導する言葉づかいである。共同体の和を保とうとするのは、なにも同調圧力が強いとされる日本だけのことではなく、人間が群れで暮らす以上、多かれ少なかれ様々な共同体で観察されるのだとう。大事なのは、その共同体の中で、この本のようなずるい言葉への解毒剤を蓄積していくことだ。ファストな言葉のぶつけ合いにスローな言葉で壁を作っていく。この本は何度読んでもよい。何度も読むべきだ。というのも、上に引用した「ずるい言葉」にどう返せば良いのか、今の私でもぱっと思いつかないものもあるから。みなさんは、上記のずるい言葉に、ぱっっと言い返せるだろうか?(そもそも、「ずるい」と感じていない…ことはないと思うが)


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