ここに人間はいません――藤沢数希『ぼくは愛を証明しようと思う。』(幻冬舎文庫)

小説の体にはなっているが、実質的にナンパのマニュアル本。橘玲『裏道を行け! ディストピア世界をHACKする』(講談社現代新書)の章1つが、ナンパ師(ピックアップ・アーティスト、PUAと英語では呼ばれる)に割かれていて、橘はおもにアメリカのPUAを紹介していたが、藤沢の本書にも言及されていた。ので、興味があって読んでみた。

付き合ってる(と自分はおもっている)相手にクリスマスプレゼントで30万円のバッグをプレゼントしたら、音信不通になる。職場で親しく接している女性がら引っ越しを手伝ってほしいと言われ、彼女の家にのこのこ参上したら、彼女の彼氏といっしょに重たい家具を運び出して、ありがとうございました。…と、女性に「モテない」わたなべ君が、弁理士の仕事で知り合った「モテ」る永沢さんから、ナンパ指南を受け、メキメキ上達していく…という話。

永沢は、進化論や心理学などをアレンジし「恋愛工学」を作り上げる。曰く「モテ=ヒットレシオ×試行回数」であり、ヒットレシオをあげるテクニックを身につけながら、ひたすらに試行回数(女性に声をかけること)を繰り返せば、「モテ」に到達する。「モテ」とは、意中の女性と性的関をもつ(ひらたくいえばセックスする)と定義される。「進化生物学や心理学の膨大な研究成果を基に、金融工学のフレームワークを使って、ナンパ理論を科学の域にまで高めたもの」と恋愛工学は定義される。リチャード・ドーキンスの利己的遺伝子仮説や、グッピーやクジャクなどの動物の繁殖行動、さまざまな心理学上のテクニックが次から次へと紹介され、まるで教育番組のアシスタントのように「わたなべ君」は、聞き返し、内容を明確にしてから、実践する。親切にも、重要なキーワードは太字で印刷されているので、小説=物語が不要だと思う向きは、太字の前後だけ読めば、指南本としても利用できる。

永沢は「わたなべ君」に、非モテコミットとフレンドシップ戦略から抜け出せ、という。非モテコミットとは「お前みたいな欲求不満の男が、ちょっとやさしくしてくれた女を簡単に好きになり、もうこの女しかいないと思いつめて、その女のことばかり考え、その女に好かれようと必死にアプローチすること」、フレンドシップ戦略とは「セックスしたいなんてことはおくびにも出さずに、親切にしたりして友だちになろうとする。それで友だちとしての親密度をどんどん深めていって、最後に告白したりして彼女になってもらい、セックスしようとするという戦略のことだ」と永沢は言う。いずれの場合も(永沢の考える)「モテ」にはたどり着けない、とされる。

むろん、この物語に人間は登場しない。刺激―反応の集積物としての《人間・らしきもの》が登場するだけだ。やっかいなのは、現代社会で《人間・らしきもの》がそれなりのプレゼンスを持ち、ともすれば増殖するよう奨励されている。橘玲は前掲書でこの状況を「ディストピア世界」と呼び、ギャンブル、SNS、オンラインポルノ、ナンパなどの依存性に言及している。わたなべ君が、永沢の助言に従い、ナンパ相手とのデートでラポール(信頼関係)を築こうと、「ミラーリング(相手の行為をまねる)」「バックトラック(オウム返し)」「イエスセット(相手がイエスと答える質問をする)」といったテクニックを使う。この時の男女の会話のやりとりが、実にSFじみている。本書でもっともディストピアを感じさせる瞬間だ。ホラーといってもいいかもしれない。かなり初期のチャットボットと会話している感じ。それが「モテ」につながる必勝会話テクニックとして提示されているのだ。

この非人間的な不気味さはどこから生じるのかといえば、巻末解説で小説家の羽田圭介が看破したように、言語芸術である小説でナンパ術の核心である非言語的要素を表現するのは、きわめて難しいからだ(その力量が筆者に足りていない)。永沢が言う通り、私たちのコミュニケーションは非言語的な要素が強く関係する。その非言語的要素を小説で十全に表現することは、できなくはないが、実に難しい。やりとりされる言語だけを抜き出すと、(できのわるい)AIとのチャット然となる。永沢の「モテ」の秘密も、非言語的な要素が大きいのだろうが、そこはついぞ描写されない。「修行」(トライアスロン、と呼ばれる)あるのみ、ということなのか。

実は、「わたなべ君」はダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』が愛読書なのだ。恋愛工学でモテを極めたものの、失敗(フラれ、失業する)したとき、自分をチャーリーになぞらえる。知的障害を新しい医療技術で克服したものの、効果は一時的なもので、以前よりも悪い状態になってしまう。そんなチャーリーを自分に重ねる「わたなべ君」は、しかし、一人旅の先で出会い親しくなった女性から「わたなべ君は、チャーリーにはならないと思うよ」と言ってもらえる。じゃあ、この彼女と永続的な関係を築くかというと、そういうわけえはなく、彼女との関係を保ちながら、別の女性に声をかけるシーンで本書は終わる。

SF的に言うと、たしかに知的障害への医療的介入と、人間の刺激―反応への技術的なハッキングは、本質的な部分では共通する。チャーリーと「わたなべ君」の一番の違いは、「誰が脳をハッキングするのか?」である。チャーリーは科学者(医者、研究者)であり、「わたなべ君」は自分自身だ。自分で自分の脳をハッキングすると、当初はあったかもしれない目的が、やがて霧消する。ハッキングするためにハッキングする、という無限の連鎖(=依存)につながる。「恋愛工学」なるものが、割合と試行回数でモテを定義する以上、恋愛関係が単なる数字(回数や確率)として表現され、意味は必然的に欠如する。本書は「愛を証明しようと思う」と言っておきながら、セックスの回数を増やす方法(らしきもの)は紹介される一方で、愛とは何かが定義されることもなく、ゆえに愛の証明もついぞされることはないのだった。


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