10年後の日本ーー村上裕一『ネトウヨ化する日本』角川EPUB選書

積読10年の答え合わせ

2014年の本。サブタイトルは「暴走する共感とネット時代の「新中間大衆」」。新中間大衆には「フロート」とルビがついている。実は、本が出た直後に買っていた。村上の『ゴーストの条件』は買ってすぐに読んでいたので、次の本が出た、ということで買ってはいた。それから10年…。本棚に眠っていた本書を引っ張り出し読んでみた。2010年代の前半に書かれた本書は、2010年代がどのような時代になるかを予見する本であった。そして2010年代が終わり、2020年代の前半もおわりつつある2014年の今読んでみると、本書の指摘のいくつかはその通りであったと、答え合わせできてしまう。私が本書を買った時に読めなかった理由は、今思い出してみれば「ネトウヨ」というワーディングが気になったからだが、読み終わった今なら、このワーディングはなるほどその通り、と思う。筆者は、ネトウヨを「ネットで右翼活動をし、時に街頭で犯罪的な差別煽動をする人たち」というそもそもの意味で使うことを始めながら、ネットの社会への広まり具合と、それによる社会と人々の変化(新中間大衆の振る舞い)を広く指して「ネトウヨ化」と呼んでいるのだ。確かに、この筆者独自の「ネトウヨ化」であれば、その通りの事態がここ10年で進んでいる。

ネトウヨ化とは

では、筆者のいう「ネトウヨ化」とは何か。私なりに要約してみよう。インターネット、とくにスマホの普及で人々は圧倒的な量の情報に触れるようになった。スマホというインターフェイスの発明により、人々は文字通り情報に「触れる」のがポイントである。それまでのメディアよりも、さらに身体的・共感的に情報に触れる機会が増え、非経験的な情報にも共感を示すようになった。また、2ちゃんねるに代表されるインターネットのアーリーアダプター(初期受容者)がもっていた、ネットリテラシー(嘘を嘘として見抜けないなら使うことは難しい)が成立しなくなる。ネットとはいえ情報も使う人も限られアングラな色合いも強かった時代であれば可能だったリテラシーは、ネットの大衆化(=スマホの普及)により、なしくずしになる。各種の炎上や「バカッター」(この名前もけっこう懐かしいな…)がその結果のひとつである。2ちゃんねるにあったメタな視線(ネットリテラシー)は、「ネットの情報に正しいものはない」という視点から入っていき、それでもやり取りを続ける「ネタ(アイロニー)」があった。ところが、情報と人が膨大に流入することで、ネタをネタとして維持する強度をユーザーが保持することができず、何かにコミットする決断をする。決断したあとはロマン主義が導入され、決断が求める行動が純化/過激になっていく。

2024年のキーワード

キーワードとして語られるのは「2ちゃんねる」「まとめサイト」「ネタ/ベタ」
「ニコニコ動画」「ループもの」「key」「京都アニメーション」「カゲロウデイズ」など。本書が刊行された2014年を「SNS以前」と位置づけるのは憚られるが、SNSの普及率はいまほどではなかった。(総務省のデータをみると、SNSの普及率は2011年10.5%、2015年48.9%、2021年78%となっている。)2014年は「SNS過渡期」というか、社会が「SNS化する途中」というか、そんな状況だろう。としたときに、これらのキーワードは重要であった。逆に言えば、社会のSNS化がほぼ完了した2024年において、これらのキーワードは「懐かしく」ある。歴史化された、ともいえる。たぶん今論点になるのは、セカイ系的決断主義の日常を無限にループしながら繰り返し不可能な一回だけの生を生きるのではなく、SNSと自撮りでウェブ上に拡張した自分のアイデンティティを早送りに(ファスト)に生きることだ。ウェブに散らばる膨大な情報と人と接していくために、ファストにならなければならない。このファストは、『映画を早送りしてみる人たち』や『ファスト教養』のファストであるが、そもそもはダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』の、二重過程理論からきている。ファストな生は、デジタルのスクリーン上の出来事を「別の人生」ではなく「自分の人生」とみなす。ネタ(アイロニー)や、キャラ(平野啓一郎風にいえば「分人」)ではなく、アイデンティティ・ポリティクスが焦点となる。筆者には「ネトウヨ化した日本」について、ぜひ書いてもらいたい。

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