SF評論家が考える少子高齢化の理由ーー『ディストピアSF論ーー人新世のユートピアを求めて』(小鳥遊書房)

SF評論家の私が考える少子高齢化の理由は1つである。「人類が豊かになったから」。これに尽きる。

まず少子高齢化は、現在では特定の国、例えば日本などの先進国に特有の問題とされる。いまのところ人類全体の問題ではない。しかし、このあいだ日経新聞「老いる世界 人口減早まる/2080年代にピーク 103億人/中国は2100年に半減」を紹介したが、先進国だけではなく、いま現在、人口が増えている発展途上国もいずれ日本のように人口減を迎える。なぜか? ハンス・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロランド、オーラ・ロスリング『FACTFULNESS』がデータで示しているが、ある家族がもつ子供の数に一番影響しているのは、国でも文化でも宗教でもなく、所得である。そして家庭の所得が多くなければ、子供の数は減る。ということで、人類が豊かになればなるほど、人類は子供の数を減らしていく。これが「人類が豊かになったから」少子高齢化が進む、と私が考える理由だ。2100年ごろをピークに地球人類の人口が減っていくというのは人口学者の原俊彦も『サピエンス減少』で指摘しているので、まあ、間違いがないのだろう。人口の増減、それなりに予測しやすいようなので。

と、以上で終わってしまうのもアレなので、「人類にとって豊かさとは何か?」をすこし考えてみたい。1つは「健康的な豊かさ」である。端的には平均寿命の伸びで表現される。平均寿命の伸びは、子供の死亡率が減ったことと、健康寿命をまっとうできることの2つの要因からなる。昔の家に子供が多かったのは、悲しいことに大人になれない子供がいたからだ。また、大人になっても病気や怪我で死んでしまう者もおおかった。この2つの要因が平均寿命を下げていた。ところが、人類が豊かになり、栄養・衛生状態の改善、医療の高度・普遍化が達成されると、平均寿命は長くなった。

文明の豊かさを根底で支えるのは、社会の複雑さである。専門化された教育は各種イノベーションを産むために必須だが、教育の期間は必然的に長くなる。子供が大人になるまでにかかる時間がかかり、時間がかかるということは金もかかる。大人になって仕事をしても、自分が家庭をもち子供を育てるにも金がかかる。そのための金を貯める時間も必要で、教育、就職、結婚、出産、子育てすべてが後だおしになる。出産は出産可能年齢が決まっていて、初産が遅いと2人目、3人目の出産も遅れる。昔、何人も子供を産んだ母親の初産は、いまみるとびっくりするくらい若い。

※社会は豊かになっているのに、私たちの生活は楽になっていないじゃないか! と思う人もいるが、これはこれで別の問題なのだろう。電気・ガス・水道
・インフラ・交通、インターネットにスマホ、医療や各種公的サービスは、100年前、50年前とくらべて圧倒的によくなった。人間の生存に関する点では圧倒的に豊かになっている。これは間違いない。しかし、ただ生存するだけが人間ではない。人間的な生き方が大事で、豊かなインフラが人間の精神的幸福の増大につながっていないかも? というのは現代的問題だろう。たとえばSNSがメンタルヘルスに有害である、と指摘されているように。

昔は(というざっくりした言い方になってしまうが)、子供は「小さな大人」で家庭内で労働者としてカウントできた。「貧乏人の子だくさん」は貧乏人だからこそ労働力を期待して子供をたくさん作った、という側面がある。これが可能だったのは、そもそも子供が子供としての人権が認められていなかったことに加え、労働が比較的単純なものであったり、そもそも仕事を選ぶ自由がなかったりしたからだろう。社会は硬直していた(はず)。これからの人類がそういう社会に進みたいか(戻りたいか)といえば、たいはんの人はそうではないと答えるのではなかろうか。

だいたい、「自分の人生は好きなように生きて良い!」と「人口が減っているのでなんとかしなければ!」は両立しがたい。昔は、人権や個人の自由など構わず抑圧し、家や村や国が存続するために個人は再生産をしてきた。そうしないと家や村や国が滅びるので。しかし、そうしなくても大丈夫な社会が到来した時に、かつてと同じように出産・子育てをするのか? というと疑問である。むろん、自由にそのような生き方を選択する人もいるだろうが、昔よりも比率は減るだろう。(それが自由に選ぶ、という意味だ。)たしかに、社会の複雑化により「費用が心配で子供をもてない」という人もいて、その人たちに金銭的補助をするのはありだが、しかし、金銭的な補助があっても出産・子育てを選ばない・選べない人もいるわけで、効果は限定的だろう。そして、「自由に生きて良い」と言いながら、ある特定の生き方を選ぶ人に金銭的な補助(インセンティブ)を与えるという社会設計は、もちろん社会の存続のために必要だし合理的な決定だと思うが、それはあくまで社会設計という観点からで、そのような個人の決断(出産・子育て)をしないものにとっては、「自由に生きて良いと言いながら、特定の生き方だけ奨励されるのはなぜか?」という不公平感が生じるだろう。(これが、いわゆる「子持ち様」論争の根底にあるはず。)不公平感は共同体に属する者のあいだで、負担が異なることに発する感情だ。共同体の理念が(ある程度)共有されていれば、不公平感は減るだろうが、共同体の理念が「自由に生きる」だと、そもそも共同体の義務・負担と食い合わせが悪い…。

まとめ。人類的な少子高齢化は、人類が豊かになった結果である。人類豊かさとは平均寿命の伸長で表現される。さらに、社会は複雑になり、子供が大人になるのに必要な時間=費用がかかる。また、豊かな社会では、個人の自由は大いに尊重される。ただし、個人の自由と共同体の存続を両立させることは、原理的に難しい。「自由に生きなさい」と「子どもを産み育てなさい」を両立させる共同体道徳を作れるのか。(ここでは、道徳とは共同体規範といった程度の意味。)

というか、素朴な疑問になるのだが、政治家やコメンテーターが考える「少子高齢化対策」のゴールとは、どこなのだろう? 出生率を人口置換水準の2.1まで回復することだろうか? あるいは人口減は前提として、社会・インフラを維持しつつシュリンクしていく共同体を支えられるだけの人口を算出し、そこから目標となる出生率を考えるのだろうか? 

私が考える少子高齢化の原因は上記のとおりだが、解決策はわからん! SF的なことを言うと、いずれ「災害ディストピア」のような文明衰退局面をむけるだろうが、インフラとテクノロジーを失った人類が、どう生存していくか? はさまざまなSFで考えられている。何百年も先のことなので、現在社会にはあまり役立たないだろうが…。

読み直したら、この書評と内容がだいぶかぶっている。


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