依存症モデルのヒトは創造性を失いつつあるのか?ーー藤田直哉『現代ネット政治=文化論』(作品社)

本書は、筆者がここ10年くらいで各種媒体(論壇誌、研究会、新聞など)で発表してきたネット、文化、政治論をまとめたもの。時事的な要素も強いが、だからといって論の価値が減じることはなく、むしろ「答え合わせ」的に読める。ポストコロナともいえる今、コロナ禍当時の様子を振り返ったり、2024年の東京都知事選直後に「若者よ、新聞を読むべし。同時に、年長者よ、YouTubeを見るべし」という2019年の言葉を読み直したりすると、目の前のことを少し離れた遠くから見る重要性に気づく

ネットが大衆化し、スマホがSNSとYouTubeを重要なメディアプラットフォームへと押し上げたことで、政治と文化に大きな地殻変動が起こっているというのが筆者の指摘である。では、いったいどのような変化なのか? 大きく言えば「ゲーム的」となる変化だ。ますます複雑化する社会を単純な陰謀物語に縮減し、オンライン上で仲間と連帯しながら、ゲーム的にミッションをこなしていく。このミッションとは自分たちが受けている「被害」を回復するためのもので、敵と認定したものへの攻撃も含まれる。攻撃はネット上のみならず、現実世界で行われることもある。インターネット草創期に夢見られた「自由な解放区としてのネット」のイメージはもはや失われている。ネットでは、感情ベースの共感で連帯した「友」が、共通の「敵」と、いつ終わるともない戦いを繰り広げる。自由な空間はデマとヘイトの温床になりつつあるのだが、やっかいなのは、そのデマやヘイトが「侵害されたネットの自由を取り戻すため」という動機づけをもっていること。事態はややこしい。

筆者の指摘で興味深いと思ったのは、「神経症モデルから依存症モデルへ」という私たちの自己像の変化だ。神経症モデルとは、フロイト的に、はっきりした意識とよくわからない無意識があり、抑圧/被抑圧の緊張関係から自己のアイデンティティが生じると考えるモデル(だろう。筆者は詳しく説明していないので私個人で補足すると)。対して、依存症モデルとは、人間を刺激ー反応の認知的機械とみなし、より良い社会はインセンティブ(刺激)の設計にかかっていると考える。考慮すべき個人的内面などもはやない。

さいきん私は思うのだが、設計主義的な発想は人間の成長を想定していないのだろう。すべてがフラットに、刺激に対する反応として期待される。ネット/スマホの前では人は平等に刺激ー反応なのである。成長がない(少なくとも期待されない)というのは、時間に幅がないことだ。今を生きるーー今しか生きれない。

動画・共感ベースのコミュニケーションでは、「創造性が低下する」と筆者は指摘する。この指摘は、しかし、どう受け止めて良いのか。ともすれば「ニューメディア有害論」(新しいメディアは、新しいがゆえに、有害であるとされてしまう)の反復にも思える(その危険性は筆者も自覚している)。脱社会(萌え)でも反社会(格差)でもなく、現実からの逃避ではなく現実と向き合うために必要なサブカルチャー(的想像力)とは何か、筆者は問いかける。サブカルチャーがポストトゥルースになってしまわないように。どうすれば良いのか。本書はポストトゥルースへの向き合い方を模索している。

以上が本書の紹介である。以下は拙著『ディストピアSF論』の第2章「監視ディストピアーースマート化された身体のアイデンティティ」と絡めるた話。徹底的な情報公開がトゥルース(真実)を導くか、というと必ずしもそうではないのが、現代の難しいところである。「透明性はフェイクニュースの母」(スタンリー・フィッシュ)。確かに公的な情報は、黒塗りなしに公開されたほうが良いのは間違いないが、SNSとYouTubeで議会の様子を発信し続けても政治(共同体におけるコンセンサスの形成)が前に進むわけではない。アテンションエコノミーが支配的な社会では、「ファクト」も「エビデンス」も論理プロレスのパフォーマンスになってしまいかねない。どんなにスローでも良いので、アテンションから離れたところで、ゆっくりと対話し合意していくほかないと思うのだが、もうそれを許す雰囲気は社会にないのだろうか。あんまりなさそうだ…というのが都知事選の結果を見た私の感想。ただ、Twitterで注目を集める政治家が出てきた頃を思い出すので、昨日今日そうなったというよりも、ここ10年くらい緩やかに進行してきた事態なのだろう。


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