リバタリアニズム、リベラリズム、コミュニタリアニズムーー『ディストピアSF論ーー人新世のユートピアを求めて』(小鳥遊書房)補足

『ディストピアSF論ーー人新世のユートピアを求めて』(小鳥遊書房)では、マイケル・サンデル、橘玲をひきつつ、生物学的根拠をもつ道徳として次の3つを紹介した。リバタリアニズム、リベラリズム、コミュニタリアニズム。ここでは、議論を少し補足してみたい。

リバタリアニズム(自由至上主義):政府の介入は悪。個人が自由に振る舞えば市場の調整機能により、富を最大化するところで売り手と買い手が売買するだろうと考える。もし、不本意な契約があるとしたら、それは市場が完全に自由になっていないからであり、解決策は規制緩和。

リベラリズム(社会的な平等、公平):所有、市場、表現などのさまざまな自由があるが、ここでは社会的な平等・公平を求めるもの。(wikiの分類に従えば、近代自由主義。)政府の介入により、自由な競争のための「公正な環境」「平等なスタートライン」を整備する。

リバタリアニズムとリベラリズムの対立は比較的理解しやすい。市場で競争するとして、スタートラインを平等にするのか(リベラリズム)、競争を平等にするのか(リバータリアニズム)。競争自体が公平に行われていたら、その結果は個人の結果として引き受けられる(引き受けるべき、という含意もある)。競争自体をどんなに公正に作っても、スタートラインに立つ個人にばらつきがあったとしたら、どうなの? とリベラリズムは問う。今風に言えば「親ガチャ」とでもなる、生まれや(身体的)能力の違いである。

かつては、スタートラインもデコボコで、競争自体も不正に歪んでいたが、リベラリズムからもリバタリアニズムからも矯正された。ただ、究極的なところでは、リベラリズムとリバタリアニズムは相入れない。リバタリアニズムは、競争を公平にする以上、参加者個人の属性はカッコに入れる必要がある。競争は公平です、といいながら、他方で参加者の属性によってスタートラインが異なっていたら、一貫していない。リベラリズムが、スタートラインの公平性を追求するのであれば、競争それ自体も公平に設計しないと、問題である。例えば公平に設計されているようにみえるスポーツでも、参加者の身体条件によって有利不利は生じているし、それをならすために性別や体重別に参加者を振り分けているが、この振り分け方に恣意性は入り込むだろう。

私はかねがね「リバタリアニズムはSF的である」と主張してきた。リバタリアニアズムが前提にする市場で自由に取引する主体が、時にSFが描く「情報的身体」に似ているのではないか? 情報的身体とは、その人の身体性(生まれ・育ち、性別、人種、宗教、言語、階級、国籍、能力など)とは無縁に、コンピューター上に脱身体化した魂的な存在のことである。コンピューター上なので、むろん「加筆訂正」し放題。

SF評論家のSFっぽい生活 #34 ウォルター・ブロック『不道徳教育』

しかし、むろんこれは幻想である。どうにもならない「この身体」を、どうしたらよいのか。個人の属性を把握してスタートラインを公平に引き直すのか(リベラリズム)。アイデンティティの無限の細分化は、スタートラインの複雑化であり、ルールの共有が難しくなるし、どのアイデンティティのどの属性を考慮するのかで
「無限のマイクロアグレッション」(荒木優太)が発生しうる。(現に、発生しているだろう。オリンピックをめぐる問題も、原理的にはこの問題を反復しているのではないか?)

どうにもならない「この身体」を偶然として引き受ける思想がコミュニタリアニズムだろう。

コミュニタリアニズム(共同体主義):共同体の歴史や伝統、生まれた落ちた場所を重んじる。抽象的な普遍性原理と対立する。なんでも自由に選べるのか? 選んで良いのか? 選ぶとどうなるのか? への反発。共同体への帰属意識。ただし、近代的自由を前提にした共同体である。共同体の価値観を重要視する。その共同体の成員であれば、守るべき規範や果たすべき義務がある(だろう)。

コミュニタリアニズムといって私が念頭に置くのはマイケル・サンデルである。特に『それをお金で買いますか』だ。

市場勝利主義が問題なのは、市場の公平さもさることながら、それまで市場で取引されなかったものが市場にでるようになると、人とものの関係が「腐敗する」ことになる。金銭的な評価がつくと、「その価格を払えさえすれば良い」「その価格を払えないならばダメだ」と、金の有無に削減される。みなの共同体なので、みなでやるべきことはみなで分担しよう、そこに値段はない、誰が何をやるかは、共同体で決める(しかない)。共同体はそこまで大きくないだろうから、各人のできること・できないことに合わせて設定されるだろう。うまくいけば。

コミュニタリアニズムは、うまく機能するならば、リバタリアニズムとリベラリズムの良いとこどりができそうな気がする。しかし、市場主義の波は一方的・不可逆的なので、ひとたび市場に出されてしまうと、それを共同体に取り戻すことは、なかなか難しい。斎藤幸平(やそれ以前のマルクス系思想家)がコモンの価値を説くのは、理解できなくもない。難しいのは、「安全なSDGs」のように、その身振り自体が「○○ウォッシュ」と批判されうることだ。

『ディストピアSF論』は、政治の話でもある。《私たちーあいつら》の境界線を引けるのか、引くとしたらどうやって引くのか、という話をえんえんとしている。この共同体の線引きは、コミュニタリアニズムの問題でもある。個人の自由を尊重しつつ共同体の維持が可能か。《私たち》から《あいつら》が「パージ」されないんか。実は、パージされているのではないか? あるいは、《私たち》の共同体を成立させる根源には、《私たちーあいつら》の線引きが内包されているのではないか。…という話。


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