「自分がしたいことをする」ことの難しさについて――新庄耕『ニューカルマ』(集英社文庫)

ある芸能人が自身の主催するオンラインサロンで、自作映画のチケット付き脚本を販売していた。サロンメンバーで「何がやらなきゃ!」と覚醒した人が、チケット付き脚本を大量に購入(80枚=24万円)、それをあの手この手で売ろうとするも、全然売れず。(当たり前だが。)それでも自分は「気づきを得た」と前向きな様子をブログでブログで報告していた。この様子をみたある作家が「ネットワークビジネス」と言い、お薦め本として紹介したのが本書・新庄耕『ニューカルマ』だった。

ネットワークビジネスとは、と定義するのはけっこうムズイ。ある商品(健康食品や化粧品などの消耗品が多い)を販売店ではなく個人の会員が売る。商品を売るには会員になって会費を払い、売るための「権利」を手にする必要がある。この会費がかなり高い。会費のもとを取るためには、商品を上手に売る…のではたりなくて、自分の「子」となる新しい会員を増やすことを勧められる。子の会員が増えると、自分にも会費の一部が入ってくるからだ。さらにその子会員が同様に子、つまり自分にとっての「孫」の会員を増やしても、自分まで会費の一部が入ってくる。自分の下に会員が増えれば増えるほど、自分にお金が入ってくる、という仕組みだ。

ネットワークビジネスの解説(紹介)ウェブサイトを見ると「違法ではない」と強調している。確かに違法ではないのだろうが、このやり口には問題があって、自分の下に会員が増えて商品を買い続けない限り、自分には収入が入らない。さらに会費を賄うために、商品を売ることよりも会員を増やすことが奨励されている構造そのものが、「モノを売る」という普通のビジネスモデルではなくて、関係性=会員を増やすことを前提としている。自然、売るモノははっきりいってどうでもよくなる。いちおう健康食品やら化粧品やらで、大手メーカーが作るものとは「違う」というのだが、どこがどう違うのかは、正直わからない。モノが良ければモノを売る利益だけでビジネスを拡大できるはずなのだが、会員に高い会費を払わせる必要があるのは、なぜか?(これはもちろん反語である。)モノでは利益がでないから、ヒト=人間関係を売るのだ。

本書では、大手メーカーの子会社でリストラ・人員整理におびえながら働く語り手が、最初は副業として、大学時代のぼんやりとした友人から誘われ、ネットワークビジネス「ウルトリア」に参加する。しばらく末端会員を続け、悲惨な生活を続けるが、やがてある転機を迎え、自分の「子」「孫」会員が増えるように。順風満々にも見えたが、躓き、生活が破綻する。…とここで終わるかと思いきや、さらに二転三転していくのが本書の面白いところ。本書のタイトルでもあるニューカルマというネットワークビジネスが登場してから、さらに面白くなる。

ネットワークビジネスは人間関係を金に換えていく。語り手の友達・職場の人間関係は壊れていく。友達からは避けられ、職場では管理職に厳しく注意される。行きつけの飲み屋で、知らない客に化粧品のセールスを半ば「自動化」した意識でし始めるくだりなどは、「こうなっちゃうのね…」という強烈な印象を与える。

今でも手を変え品を変え、ネットワークビジネスはいたるところに繁茂しているので、注意が必要。儲かる人はおそらくそれを始めた人(ピラミッドの頂点付近)だけだ。最近は、情報商材やらウェブビジネスやら旅行サービスなど、具体的なモノではないこともあるらしい。

さて、それはそうと冒頭の芸能人のオンラインサロンに戻る。チケット付き台本をメンバーに売ることはネットワークビジネスそのものではない。ただ、「自分が本当は何をしたいか」を無理やり言語化させ、不安を背景に「何かしなきゃ」「変わらなきゃ」という抽象的なモチベーションを、具体的な商品購入へと誘導する。というかこの事例だと、サロンメンバーが勝手に買ったのだが、でもまあこの「勝手に」というのは、サロンの外にいたら買おうとはならないだろうという意味での「勝手に」だろう。このレトリック自体は『ニューカルマ』でも出てくるのだ。

自分がしたいことをする。極めてシンプルに思えるこれは、実はとっても難しい。まず自分が本当に何をしたいのか、自分でもわかっていないことが結構あるからだ。そしてそれを言語化しようとするときに、言語化できないこともあるからだ。それでも無理に言語化すると、どこか何かゆがんでしまうからだ。言語化を誰かに手伝ってもらったらな、その第三者の「手」が加わることもある(し、手を加えてこようとするものもいる)。さらに、ようやく目に見えたように思える「自分がしたいこと」を実現するための手段が、手段を越えて目的になってしまうこともある。というか目的があいまいであると、容易に手段と入れ替わってしまう。手段の方が具体的だから。

人間の本性を垣間見た、良い小説だ。(2021年1月15日シミルボン掲載)

追記(2024年6月9日)

脳をいかに効率よくハッキングするのか? がビジネスで成功する秘訣なのだろう。皮肉として言いたいが、皮肉ではなくベタに実践されているビジネスパーソンの自己マネジメントスキルにも同様の手法はよく登場する。ハッキングというと聞こえは悪いが、要は、脳の生物学的構造を理解し、どうやれば脳の報酬系を制御しモチベーションを最大にできるのか、ということだ。自分で自分に実践すれば単なる自己啓発なのだろうが、自己啓発のめんどくさいところは、自己啓発が他者から導かれることだ。脳のハッキングが上手な人は、自分だけではなく相手の脳も管理下における。自己管理の技法を学ぼうと自己啓発の門をくぐったものが、その脆弱さからいつしか誰かに好きなように管理されてしまう…なんてことはあり得る。と、ここに書いたのは自己啓発の話なのだが、ネットワークビジネスもどれもこれも似たような構造で会員を増やしていくわけで、脳をハッキングしてやろうという発想は自己啓発とつながる。どこか地続きなのは、技法が共通しているから。

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