『ディストピアSF論』特集:SNSディストピアの誕生――デイヴ・エガーズ『ザ・サークル』(早川書房)

前説

本が出たぞ。『ディストピアSF論――人新世のユートピアを求めて』(小鳥遊書房)。

ディストピアについてはずっと考えていて、例えば今回再録する記事は2017年のものだ。エガーズ『ザ・サークル』は、読んで以来、ずっと考えている小説である。もちろん『ディストピアSF論』でも論じている。

今回の記事では、あらすじ紹介と論点提示をしている。興味がある人は、ぜひ本書を手に取ってもらいたい。

(2017年10月の記事)

『1984年』だけでは不十分

ドナルド・トランプが大統領になってアメリカではジョージ・オーウェル『1984年』がバカ売れしているらしい。先日、立ち寄った東京駅の丸善の洋書コーナーでも原著Ninety Eighty-Fourは確かにベスト5の中にランクインしていたのを私も見た(何位かは、忘れたが)。

たしかに『1984年』を読みたくなる。その気持ちは良くわかる。全体主義のディストピア小説の代名詞的存在である『1984年』から、今の私たちが得られるものはそれなりにある。しかし、2017年の今、『1984年』だけでは不十分だ。

今、読むべきなのはデイヴ・エガーズ『ザ・サークル』だ。オーウェルの時代には全く想像されなかったSNSというテクノロジーが社会の隅々まで浸透した時代ならではのディストピアを、『ザ・サークル』は見事に描く。オーウェルをけなしてエガーズを褒める「後出しじゃんけん」をしたいのではなく、オーウェル「だけ」を読んで、今のディストピア(感/観)を理解した気になるのはまずい、と言いたい。

SNSディストピアは次の3つの特徴をもつ。
①SNSは民間企業のサービスとして提供される。
②個人は〈自発的〉にプライバシーをSNSで公開する。
③ハイテクノロジーにより自分だけに秘めた内面は存在し得ない。

『ザ・サークル』あらすじ

GoogleとAppleとFacebookを合体させたようなシリコンバレーの情報産業企業サークル。友人のアニーの計らいでCE(カスタマーエクスペリエンス)に就職できたメイ。客の問い合わせに答える仕事で成果を出していく。サークルはSNSを前面に売り出す企業。サークラー(サークル社員)も積極的にSNSで発信しなければならない。サークラーのSNS人気ランキングまである。

サークルが提供するサービスはSNSだけではない。SNSをプラットフォームにして、様々なアイディアと、それを実現するテクノロジーを提供する。例えば、高性能小型カメラを全世界に配置する(GoogleMapの動画版)。チップを体内に埋め込み、子供の連れ去りや不審者の犯罪を未然に防ぐ。写真やらビデオやらを全てデジタルアーカイブにし、顔認証を使って自分の家族の過去を知る。これらの極北が、政治家が自らの説明責任を果たすために、四六時中カメラを身につけてネットで配信する「透明化」だ。

第二部は、紆余曲折の果てに、自ら透明化したメイが、社内の顔としてサークルの様子を伝える。この様子はまるで「ニコ生主」である。さらにはサークルアカウントを国民全員に義務化し、選挙行動とタグ付けしては、という提言さえ飛び出す。

では、先に示したSNSディストピアの特徴3つを説明しよう。

①SNSは民間企業のサービスとして提供される。

サークルは徹底的にユーザーの利便性、および企業の利益を優先する。民間企業だから当たり前。もしユーザーの利便性、企業の利益と、共同体の価値観がぶつかった場合、どちらが優先されるのか? それは共同体次第となるが、現在、共同体の価値観がますますユーザーの利便性やコスト削減を重視するのであれば、そもそもあまり衝突することはないのかもしれない。

『ザ・サークル』では選挙行動を民間企業のアカウントでやろうという発想になる。
その人間が、どこの誰で何をしていて、オンラインで何を買ったか、クレジットカードで何を払ったか、ネット配信動画で何を見たか、SNSに何を投稿したかと、選挙で誰に投票したかがシームレスにつながる。メリットは便利。デメリットは…?
一民間企業は民主主義国家のスーパープライバシーである選挙行動を把握する。それも合理性・利便性・経済性の建前で。なんてディストピア。

②個人は〈自発的〉にプライバシーをSNSで公開する。

公開された情報にもとづいてなされる意志決定こそが自由。だから情報公開を自らがすることは、悪いことではない。「紙のメディアはそこで止まるから良くない」「プライバシーは盗み」とさえ言われる。SNSディストピアでは人々は自発的に自分のプライバシーを公開する。

自発的?

他のユーザーが何を選んだかが、自分の選択に影響を与えるのがSNS。SNSはその性質上、自分がソーシャルな関係を構築したいと考えている相手が使っているプラットフォームを使わなければならない。携帯電話の番号のように、個人データを1つのSNSから別のSNSへと移動できない。

ほぼ全ての人があるSNSを使い(サークル)、SNSを使わないという選択肢が事実上選べないとき、人は〈自発的〉にそのSNSを使う。例えば、就職活動で企業があるSNSからのメッセージでしかエントリーを受け付けないとしたら、就活している学生は、〈自発的〉にそのSNS登録する。

〈自発的〉とカッコつきで書いたのは、本来的な意味で自発的ではないからだ。この選択が、何も制限の課されない状況下での自発的選択であるかどうかは、考える必要がある。例としてあげた企業が「手書きの履歴書」でもエントリーを受け付けているなら、SNSへの登録は、より本来的な意味の自発的に近づく。

このカッコつき〈自発的〉は、『1984年』でビッグブラザーによって注入されるイデオロギーと性質が異なる。ビッグブラザーは上から抑圧する。そこには抑圧が見える/見えうる。しかしSNSディストピアでは、下からの〈自発性〉が求められる。プラットフォームはがっちり管理され、自発的に選べる選択肢が削りに削られた上で〈自発的〉にネットワークへと服従する。
『1984年』は上からのディストピア、『ザ・サークル』は下からのディストピア。

③ハイテクノロジーにより自分だけに秘めた内面は存在し得ない。

『1984年』の管理テクノロジーはローテクだ。今から見ればアナクロな、監視カメラや密告が主たる技術。『ザ・サークル』のすごいところは、恐ろしいほどハイテクであり、このハイテクが現実でも十分可能かと思えるレベルのテクノロジーである点だ。

今でも自発的に「ニコ生主」となって日常生活を動画配信している人はいる。『ザ・サークル』の透明化は低価格・高性能の超小型カメラの普遍的設置によって可能になる。1人の議員が透明化を宣言すると、「透明化していないことは後ろ暗いことがあるに違いない」と皆が思いはじめ、その他の議員も〈自発的〉に透明化を選択する。撮影、配信、受信。すべてテクノロジーのなせる業だ。

映画版『1984年』では、主人公が監視カメラの視覚で日記を書くシーンがある。権力の監視網から逃れ、告白すべき内面を自分が保持していることを表している。『ザ・サークル』にそのような隙間は存在しえない。
映画『1984年』は監視カメラの先に監視者たる人間がいて、逐一、カバンの中身をチェックするが、『ザ・サークル』ではそんな人的コストをかけることなんてしない。記録してしまえばよいのだ。そうしたら、その記録はいつか誰かに「見られうる」。この可能性が、「不適切なふるまい」への抑止力となる。
実際、大量の暇人(?)がいて、透明化した人間のふるまいを見張っている。現在のtwitterやブログでどこかの誰かの「不適切なふるまい」を見つけては炎上させる人たちと似ている。

もはや個人の内面は内に秘めて隠されるものではなく、ウェブ上にデータとして蓄積されどこかの誰かに発見されるものとなった。

これが、SNSディストピアの特徴だ。

SNSディストピアを生き延びるためのヒント

グレッグ・イーガンというSF作家が書いた「しあわせの理由」という短編がある。これは、病気+手術によって、自分の脳内報酬系を自分でコントロールできるようになった青年の話だ。好き・嫌い、快・不快を自分で決めることができる。
青年は困惑する。
どうやって自分の好みを選べばよいのか? 誰を好きになるのか、どうやって決めればよいのか?(彼の場合、脳内をコントロールするので、好きになることを決めたら、本当に好きになる)
青年は、悩んだすでに1人の女性を好きになることを決め、実際に好きになる。青年はその女性とどのような関係を築けるのか?

1997年発表の短編。今から20年前のものだ。だが、今の私たちのある姿と似ている。
先日、私はtwitterで自分がフォローしている人を見直して、フォローを外していた。自分のタイムラインに流れてくる情報を意識的に取捨選択していた。私はtwitterを暇つぶしに見るので、正直、自分が見たくないものは見たくない。自分に心地よいものを、フィルターをかけて意識的に選択する。
もっといえば、フィルターを調整し流れてくる特定の情報に自分をさらし、それを好むようになれるかもしれない。流す情報を選び、自分が何を好むか決められるのではないか。

私たちのアイデンティティはウェブ上に蓄積される。それらを、私たちは調整することもできる。
生まれた瞬間からSNSにデータがアップされる。こういう時代である。
だから、こういう時代の生き方が模索される。『ザ・サークル』は、すべてを透明にするテクノロジーが存在するとき、人間は不透明さを維持できるのかと問う。物語には、謎の人物がメイに接触する。プライバシーは罪とされる企業において、正体が不明の男だ。彼はいったい何者なのか? 

『ザ・サークル』はこの時代の誘導灯のような小説だ。エマ・ワトソンとトム・ハンクス主演で映画化、2017年日本公開も決まった。

監視/カメラ/アイデンティティの問題を映画をテクストに論じた拙稿は限界研編『ビジュアル・コミュニケーション』に収録されている。


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