男が女になることを義務付けられた世界で――田中兆子『徴産制』(新潮文庫)

徴産制…「日本国籍を有する満十八歳以上、三十一歳に満たない男子すべてに、最大二十四カ月間「女」になる義務を課す制度。二〇九二年、国民投票により可決され、翌年より施行」(本書表紙より)

田中兆子は「もし男も妊娠できるならばどうなるだろうか」という〈もしif〉を描くことで既存のジェンダー規範を攪乱する。という意味で、伝統的なフェミニズムSFである。21世紀も終わりに近づく日本は、少子高齢化、過疎化、食糧難、さらには、スミダインフルエンザという女性のみがかかる新型感染症により若い女性が男性に比べて極端に少ないという男女人口の不均衡に直面していた。国難としか形容しようのないこの状況から脱出するために施行されたのが「徴産制」である。内容は上記に記したとおりだ。さらに補足すると…

  • 男性から女性への性転換、および性転換したあとの妊娠・出産が可能となる。

  • また「産役」後は、そのまま女性として生きるもよし、再び手術を受け男性に戻ることもできる。

  • 性転換手術をしたからといって、男性は男性としての身体(体形や骨格)とジェンダーは引き継がれる。ただし、女性として男性を愛することが(も)できる。

  • 産役につくと国から給料が支払われる。妊娠・出産は義務ではないが、出産後は産役が解かれる。

  • 産役を逃れること、または産役逃れを助けること(幇助)は重罪であり、発覚した場合は懲役ではなく3年~5年の産役を課せられる。

登場するのは5人の産役男。東北の寒村で家族で農業を営むショウマ。国会議員その先の総理大臣を目指すエリート官僚のハルト。産役逃れでつかまったタケル。主夫として美容師の妻を支えているキミユキ。病気のために周囲のものを「たじろがせる容貌」をもっていたが性転換手術に合わせて整形も施し「美しい女性」として生まれ変わったイズミ。徴産制という国家政策と、それによって露呈したジェンダーをめぐる問題を、5人それぞれが自分の立場で見つめていく。

歴史的に、女性は男性の下位に位置付けられていた。では、男性から女性に(国家の政策によって/志願して/懲罰として)性転換した産役男は、男性/女性のヒエラルキーのどこに位置付けられるのか? 性転換が容易になること、男性も妊娠・出産できることは、性差やジェンダーからの解放となるのか(第四章キミユキ)、それとも新しい抑圧・搾取の土壌となるのか(第三章タケル)。

【補足】フェミニズムSFの定義の難しさ

フェミニズムSFとは、フェミニズムが取り組む諸問題をテーマとして前景化したSFのことである。SFは科学的な思弁により「もしこんな風な現実があったら」を描写するフィクションである。あくまで科学的な思弁=発想であり、完全に科学である必要はない。「もし人間に性別がなかったら?」や「もし女性だけの共同体があったら?」という〈もしif〉を描くSFは、科学的思弁によりフェミニズムがテーマにしてきた、性差、性規範、性別役割、生殖など専門用語を使えばジェンダーとセクシュアリティをテーマにしているのでフェミニズムSFと言える。フェミニズムというと女性のための・女性による・女性を描いた、というニュアンスがつくので(実際にはそうではないとしても)、もう少し広い意味を持たせるためにジェンダーSFという呼び方もする。

ジェンダーというのは、生物学的性差(バイオロジカル・セックス)と対比される社会的性差、すなわち生まれ育った社会の中で後天的に作られるもの、とひとまず定義できる。「男性だから」「女性だから」と生物学的身体に本質的に紐づけられてきたもろもろが、実は歴史・慣習・文化によってつくられてきたもの=構築物であり、だからこそ改変可能であるというのがジェンダー概念の戦略的な位置づけだ。本質主義から構築主義へのパラダイムシフトは、しかし一つの問いをもたらす。

ジェンダーの構築性を指摘するのであれば、それを指摘しているこの「私」とは何者か、という問いだ。言い換えるならば、「男性はフェミニストになれるのか」、SF評論という文脈に当てはめるならば「男性作家はフェミニズムSFを書けるのか」となる。フェミニズムがジェンダーの構築性を解体するのであれば「フェミニズム=女性のもの」というそもそものスタート位置も同時に問い直される。だからフェミニズムというよりジェンダーというくくりを使うのだと思う。ジェンダーというのは女性だけではなく男性の問題でもあり、そもそも男性性/女性性という二項的な枠組みそのものを問い直す概念だからだ。

しかし、看板を付け替えただけでは事態は改善するわけではない。ジェンダーSFを男性は書けるのか。男性が書くジェンダーSFは、女性が書くジェンダーSFと異なるのか。異なるとしたら、何が異なるのか。そもそも作者のこと(作者の性別)を考えながら、物語を読まなければいけないのいのか。あるいは、無意識的に作者の性別を考慮しながら作品を読んでしまうのはなぜなのか。あるSFが「良いフェミニズムSF」だとして、その評価に作者の性別が入り込んでいることはあるのか、ないのか。入り込んでいることは良いのか、悪いのか。女性でしか描けない(女性ならではの視点の)フェミニズムSFがあるとしたら、それは女性性という本質を前提にしていないか。本質を前提にしてよいのか。

おそらく、フェミニズム/ジェンダーSFが問い続けてきたのは、本質性と構築性をどちらかをとればどちらかをあきらめなければならないトレードオフとしてとらえる認識論的枠組みの限界ではないか。(詳細はまた別の作品で考えたい)

(2020年9月29日シミルボン再録)

追記(2024年5月25日)

この書評は、さらに発展させて拙著『ポストヒューマン宣言』(小鳥遊書房)に収録した。そこでは他のフェミニズムSF(フェミニストSF)と合わせてジェンダーやセクシュアリティに本質性/構築性について議論している。

ジェンダーやセクシュアリティのテクノロジー的改変が、ディストピア的に見えるのは、身体という最もプライベートであるべき場所が公権力によって制御されるかだろう。友季子は『文学は予言する』(新潮選書) でディストピアの3原則をあげているが、そのうちの1つが「婚姻・生殖・子育てへの介入」であり、『徴産制』もこれにあてはまる。

新刊が出ます!

『ディストピアSF論――人新世のユートピアを求めて』(小鳥遊書房)
https://www.tkns-shobou.co.jp/books/view/631
誰かのユートピアは、
誰かのディストピアである。
ユートピアがディストピアに変容するトポス(場所)を古典的な作品から現代までSFに探る。
「監視」「人工知能」「人口調整」「例外状態」「災害」「気候変動」「労働解放」などを鍵語に、ユートピアとディストピアとの境界線をたどりながら、人新世のユートピアを想像/創造しよう。

ディストピアにつながるジェンダーSFも議論しようとしたのだが、それ以前の段階でかなり分量になってしまったので、この本ではとりあえず5つの類型を扱っている。ジェンダーSFについては、それだけで1冊の本が書けるのは間違いない…。いずれ!

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