思想は言葉で、言葉は運動し、運動は思想を形づくる――笛美『ぜんぶ運命だったんかい』亜紀書房

筆者・笛美は2020年にTwitterでかなりバズったハッシュタグ「#検察庁法改正に抗議します」を作った人だ。この本は、広告代理店という男社会(会社)でバリバリ働きながら、このハッシュタグにたどり着いた経緯を語る。

広告代理店はうわさには聞いていたが、超がつくほど激しい職場で、かつ男社会(男性的な価値観で作られている)。そこでやっていくには、女性だろうと男性的な価値観を内面化しなければならない。自分がこれからたどるべきロールモデルが身近になく、仕事のここそこでどこかに違和感を覚えながら、自分に決定権が与えられない以上、マジョリティ男性の価値観を反復する。社内だけではなく取引先のクライアントもまた男社会(会社)であれば、そこをゴールにして会社内では動くわけで、なおさら抑圧される。

こうして苦労の末に生み出した広告もひとたび世の中に出てしまえば、時に「炎上案件」となってしまう。それは作られたものが、作り手、もっといえば何を作ってよいのかを決める人の価値観の反映でしかなく、作ったものが炎上するのは、とりもなおさずその作り手の限界を示す。広告におけるジェンダーロール(性別役割分担)のステレオタイプな表象は毎年、何件が話題にのぼる。「中の人」である筆者が言うのは、中の価値観をアップデートしていかないとどうしても外の社会と齟齬が起こるというものだ。しかし、女である自分に決定権がない以上、何をどうすればよいのか? 

オリンピックにしろ何にしろ、決める人(権力のある中心にいる人)が古い価値観の男たちである組織に共通して見られる問題である。組織のトップはトップだが、組織全体の代表であり、トップがダメならば組織全体もダメである可能性が極めて高い。トップがまがりなりにも組織から選ばれた人であるならば、トップのダメさは組織のダメさとパラレルだ。これは会社の硬直性が、生み出したものの硬直性とパラレルであることと同じだ。

「本当に優秀な人ならば、男女問わず、登用していくべき」という言い方は、一見すると「もっとも」に思えるが、組織全体にジェンダーのバイアスと抑圧がかかっている場合、「もっとも」ではない。筆者も、社内インターンシップ制度でヨーロッパのF国へ行き、そこで日本とは全く異なる女性の姿に衝撃を受けるまで、自分の会社が比較的「男女平等」であると思っていたほどだ。組織の理論というのは、かくも深く内面化される。F国であたりまえのようにいるフェミニストたちと交流し、筆者はフェミニズムという思想/言葉を手に入れる。

その結果が冒頭で紹介したハッシュタグだ。この本は、筆者が内面化せざるを得なかった男社会(会社)の理論を、フェミニズムという言葉を獲得することで、言語化し距離をとり、そして変えていこうとする軌跡をたどる。と書くととっつきににくく思うかもしれないが、そんなことはなく、むっちゃ読ませる文章なのだ。フィクションだが松田青子『持続可能な魂の利用』とあわせて読みたい。(2021年9月27日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?