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私に荒ぶる林とジャングル(Fan troglodytes)

その日、私はドブ川の酷い匂いで目を覚ました。近頃はどうにもならない異常気象のせいで、朝も夜も関係なく暑い日がある。そうすると熱されたドブ川は発酵し、川の底部からガスが噴き出してくるのだ。考えただけでも「オエッ」である。ただ、私の家の近くにそんなドブ川はない。どうやら寝ぼけている。寝違えたのか首筋も痛い。
「トットットッ!」
そのうえ、一人暮らしなのに部屋の中から足音が聞こえる。重い瞼を剥がして現実に焦点を合わせると、チンパンジーがいるではないか。チンパンジーといっても大きさは消しゴムぐらいのサイズで、私が愛用しているローテーブルの上で楽しそうに糞を塗りたくっていた。
その日からチンパの鳴き声で目覚める生活が始まった。どうやら私は首筋からチンパンジーが出てくる病気になってしまったらしい。奴らは3時間で消失するが、フリスビーのように窓から投げ捨てられた米津玄師のアルバム(親友から借りた)や、物珍しそうに観察してから飲み込まれた指輪(婚約者から貰った)は元には戻らない。私は頭を抱えた。「チンパンジーが首筋から出てくる病気なのよ!」と説明して、「そっかぁ。チンパンジーが首筋から出てくる病気なら仕方ないよね」と言って誰が信じてくれるだろう。というか、そんな病気は私も知らない。案の定、親友からは距離を置かれ、婚約も破談になり、職場では「なんか臭い」と陰口を叩かれて、現在は誰とも会わずに済むラブホテルの清掃員のバイトで食い繋いでいる。踏んだり蹴ったりである。
「こんな意味のわからない現象によって転落人生を歩まなければならないのか?」
私のイライラは頂点に達し、ストレス解消のためにゴム鉄砲でチンパを狙撃しながら、朝バナナダイエットをするようになってしまった。体重は3kg落ちたし、何度撃たれても「バナナあげようか?」と言うと寄ってくるのだからバカなチンパである。可愛いやつめ。
どうかしている日々を過ごしていると、私の事を心配した前の職場の部下の林くんが訪ねてきた。正直私は彼の事を何とも思っていなかったが、話を聞けば信頼していた上司が職場から居なくなって寂しくなり会いにきたという。なんともワンチャンありそうな話である。胸の内を明かしてくれた林くんに対して、私も誠実に話す事にした。朝目覚めると首筋から小さいチンパンジーが出てくる事、投げつけられる糞を避けながら、家具が壊されないようにゴム鉄砲で狙撃する事、たまに複数匹現れてスリリングだったり、チンパには個体差がある事などを話した。
「結婚して下さい!」
文化人類学者が聞いたらどう思うだろう?
私が人生最悪の時期を過ごしているのをいい事に、部下の林くんは心の隙間を埋めるように告白してきた。彼は喪黒福造なのか、果たして私が言ったことを信じているのかどうか疑わしいが、前の結婚相手よりは理解がありそうだ。人間の本性というものは、緊急時にさらけ出されるものである。
その夜、彼は私と同じ布団で寝た。
翌朝、「ヒッホホ!ヒー!ヒッホホ!ヒー!」という聞いたことのない音圧の奇声で目を覚ました。すぐ起きようとしたが、まるでバットで殴られたような痛みが首筋にあり、どうにか身体を捻って音の方向に視線をやるのが精一杯だった。嗚呼、何ということだろう。100匹近いチンパの群れが林くんを囲んで食べているではないか。「やめろ!」と言おうとしたが、舌も痺れて動かない。私はただただ、チンパどもに食われて小さくなっていく林くんを見ているしかなかった。たいていの肉が食われると、チンパどもは骨でチャンバラを始めた。以前、むしゃくしゃしてラブホテルに出入りしていた性犯罪者を殺した時に、死体の処理を彼らに任せようと1匹のチンパに教えた事が、どうやら集団全体へと伝承されていたらしい。よく覚えていたなぁと感心する。そして突然の眠気に襲われた私は眠ってしまった。
それからはチンパが現れる事もなくなり、私はコールセンターの正社員として充実した毎日を過ごしている。林くんがどうなったのかは怖くて確認できないし、さほどの興味もないのでどうでもいいが、きっと誰かの首筋から生まれて走り回っているのではないかと思う。
一つ言えるとすれば、どう考えてもあれはチンパンジーではないという事だろう。

#小説
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