と或る症状

日常にありふれたどんなものにも、目の前に現れる肯定には様々な人間の仕事が介在している。影の功労者、縁の下の力持ち、目に見えない労働者。もっとそういう立場の人間を評価すべきだと私は思っていた。一部の人間が富を貪っていたのがたまらなかったし、自分もいつそうなってもおかしくないと理解していたからこそ、感情移入ができたのだろう。
それから私は目線を変えて社会を見るようになった。走り去る車も、風に揺れる街路樹も、巨大な看板も、目の前に提示される全ての物の裏側に労働者がいて、仕事の結果がここにあるのだと。
今思えば、ここで思いとどまるべきだったーー

この目線で社会を見続け生活を送ると変化が現れた。何の変哲も無い街灯にヘルメット姿の作業員が登っていて、そこでずっと足元を照らしているように見えてきた。彼らは昼夜を問わずそこにいて、全ての電柱にその姿は確認された。
また、無機物のそれぞれに労働者の姿が見えるようになると、耳の中には叫び声が聞こえ出し情緒が不安定になってきた。脚立に登った作業員が倒れそうになるのを目にしたので、急いで脚を抑えたが、そんなものは存在せずに私の手は空を切った。そんな私を周囲の人間たちは頭のおかしな人間だと思ったに違いない。冷たい視線を感じるたびに「お前らは労働者の気持ちを分かっていない」と呪詛を込めて口にした。
「どうぞ、ここ座ってください」
存在しない。笑われる。
「お荷物お持ちしましょうか?」
存在しない。笑われる。
「お怪我はありませんか?」
存在しない。笑われる。
「最近様子が変ですけど、どうかしましたか?」
「いえ、別に」
「それならいいんですが、もし何かあったら言ってくださいね」
「ありがとうございます」
存在する者、存在しない者、全てに平等であろうとした。

それは私の行動が周囲に影響を及ぼし始めた時だった。仕事を終えて会社から一歩足を踏み出した瞬間に夜空から雨が降ってきた。天気予報で雨が降ると言っていたのかは定かではないが、そのまま小走りで近くのコンビニに向かった。すぐにビニール傘を手に取りレジ台に乗せた。すぐに使うから包装のビニールを外してもらった。お釣りをもらって歩みを進め、自動ドアをくぐるのと同時に傘をさした瞬間、雨粒は血しぶきに変わり、空から数えきれない人間が落ちてくるのが見えた。
あまりの衝撃に腰を抜かし尻餅をついてしまった。
「どうかされましたか?」
キョトンとしている店員。
「いえ、別に何も…」
店の床には血だまりと、革靴の、スニーカーの、ハイヒールの足跡がついていた。それを見るなり怖くなり、意を決して歩くことにした。膝が笑う。傘を握る手も震える。人が落ちて砕ける。耳に残るのは叫び声を通り越した断末魔。
ようやく駅に着くとカバンからイヤフォンを取り出し、普段はほとんど聞かない音楽を聴いて耳を塞いだ。
車内は満員で窓は人間の熱気で曇っていたが、それでも赤く染まっていることは容易に確認できた。目を瞑って耐えた。レールの上がどうなっているかなんて想像しただけて吐いてしまいそうだった。電車から降りる時はなるべく考えないように、耳は完全にイヤフォンの中に集中し一定のリズムで足を踏み出した。
「夜で良かった。もしこれが朝だったなら…」
そしてようやく家にたどり着いた時には神経は限界に近づいていた。晩飯も食わず横になり、悪夢が終わることを願って眠りについた。

翌朝、鏡の前にはひどい顔をした自分が立っていた。とりあえず顔を洗おうと蛇口をひねると血が溢れてきた。これには驚愕した。悪夢は終わっていない。どうにか身支度をして家を出ると、階段はうずくまった人間に変わっているのに気づいた。
「これは限度を超えている。もう日常は存在しない」
昨晩の濡れたままのソールには赤く染まった砂利がついていて、人間を踏みつけるたびに背中が滲んで悲鳴が聞こえた。
私の悲鳴は簡単にかき消された。

その日から私は電車通勤をやめて、以前のようにハイヤーで通勤するようになった。「社長、早くも音をあげましたか」とドライバーに笑われた。
それからは症状は全く出ていないが、あれがただの被害妄想だったのか、或いは限界まで達した労働者の叫びだったのかは分からない。
走り去るハイヤーの残像の中、窓の外を過ぎ去る工事現場の誘導員に私は会釈した。

✳︎裕福な人間は失うことに恐怖するということから、罪悪感や被害妄想の世界を書いてみたら面白いのではないかと考えた。
無数の人間が空から落ちてくることが「自然現象」と比喩した点が現実と非現実を繋げるギミック。

#小説 #ショートショート

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