来世の涙

「どうして先生は教師になろうと思ったんですか?」
この仕事をしていると何度か同じ質問に直面することがある。
「君たちに世界の広さを教えてあげることができるからだよ」
たいていそう答えるし、この言葉に嘘偽りはない。しかし、どこか言葉足らずでそのたび胸の奥が痛む。
まっすぐな目をしたこの時期の生徒の気持ちが私には痛いほど分かる。進路に悩み、存在に悩み、他人と比較して、自分は何の取り柄もない人間だと思って死にたくなる生徒もいるーー。
理想と現実の前で夢から覚めてしまうような、或いは魔法が失われていくような、破壊されながらも身体のどこかで何かが創られていくのを感じる年頃だ。人によってはそれを甘酸っぱい思い出だとか、苦い思い出として大人になって懐かしむのだ。
「どうして先生は教師になろうと思ったんですか?」
「死にたくても死に切れなかったんだよ。そのまま生きても大人にもなれない気がして、だから君らがこっちに来ないように、遠ざけるためにここにいるんだよ」
本当はそう答えたかった。倫理や善悪を教える立場であるから、なおさらその場しのぎの嘘に思えてならなかった。チャンスはあったが、記憶のフタが開いて一気に昔に戻される恐怖があったのだ。
つい先日、休み時間に窓の外をぼんやり眺めていると普段はほとんど喋らない生徒が私のほうにやってきた。私はプリントでも持ってきたのかと思ったが、その生徒は呪文を唱えたのだった。
「あの、先生はどうしてーー」

これは私が高校二年の時の話。
自分のクラスの女子生徒が死んだ。
その子とは特別に仲がよかったわけではなかったが、小学校も中学校も同じで、たまたま高校も同じだった。それで高校二年のクラス替えでたまたま一緒になっただけ。まぁ、少子化で学校が頻繁に統合される田舎では今でもよくある話だろう。
男女共学ではあったものの、仲のいい奴らで固まっているからほとんど男子と女子の接点はない。小学校のように体育の時間が一緒というわけではないし、選択科目もあったから、極端な話、消しゴムを落とすか拾った時ぐらいしか会話はないのだ。あの頃の私には教室に見えない壁があったように感じた。
ある日のこと、何がきっかけか知らないが、その子がイジメられるようになった。肉体的なものではなく、まるで透明人間のように扱って精神的に追い詰めるものだった。それが小さな教室の中で起きているのだから、当然クラスの中で気づかない人間はほとんど居なかったはずだ。
そう、私は気づいてしまった一人だった。
それからはどうやって彼女に話しかけようかを無意識のうちに考え出していた。別にヒーローになろうだなんてことは考えてはいなかった。全員が全員を監視している雰囲気は気持ちが悪かったし、なにより気持ち悪いのは監視しているくせに誰も彼女を助けようとしなかったことだ。私はそれに耐えられなかった。私はそれを構成している一人にはなりたくなかった。彼女の為というよりかは、彼女を助けなければ自分が無くなる気がしてならなかったのだ。

私は悩みごとがあるときまって一つ上の兄に相談していた。兄も私も性格が似ていた。
「いじめかぁ。いじめは良くないね」
「うん」
「アキヒトが解決できるわけじゃないかもだけど、アキヒトの言いたいこと分かるよ。うん…」
「どうしたらいいんだろう?」
「その子は何も悪くないから全体に問いかけるしかないと思う。いじめってものがどうしょうもなくツマラナイことだって態度で示すこと、それと、もし悪化するようだったら警察に兄さんが行くよ。いじめって、未成年者だからそう呼んでるけど、暴力とか恐喝とか差別だからね」
「兄さんがいてくれてよかった」
「うん。また相談してくれよ」
「ありがとう」
兄の部屋の扉を閉めると同時に、胸の中に熱い何かがこみ上げた。孤独を溶かすような、言葉にできない感情だった。それと同時に、もしあの子に相談相手がいないとしたらーー そう考えるとゾッとした。

その日からとても些細な一言を彼女に投げるようにした。それはとても簡単なことで誰にでも平等に接するということだった。私は少しでも教室の雰囲気が改善するかと思っていたが、監視員達は挙動不審な私の姿を逃さなかった。
ある日、学校へ向かうと教室の黒板に相合傘が描かれた。傘の下には私とあの子の名前が書かれていて、教師全体がニヤついていた。全てを悟った私は馬鹿馬鹿しいと思った。朝自習前の張り詰めた空気の中で、その傘を戦闘機に変えてやった。黒板は縦スクロールのシューティングゲームで、コックピットの中で私とあの子が戦っている。心無い監視カメラにには分からないだろうが、分からせるために描いたのだ。描き終わった私が席に着くと同時にガラガラと扉が開いた。
「んっ、誰だっ。落書きしたらちゃんと消しとけよ。それと日直、チョーク補充しておいて。じゃあホームルーム始めます」
担任は簡単に消し去った。頭にくるぐらいの早さで。

それからというもの、移動教室から帰ると机の上に花瓶が置いてあったり、教科書にジャムが塗りたくられていたり、上履きに画鋲が刺さっていたり、監視員たちは色々なバリエーションで器物破損を繰り返した。
もし教師だったら、その後始末をする私の行動を見れば暴力と差別と迫害が存在することに気付いただろう。残念ながらあの学校に教師は居なかったらしい。
尊敬する兄が世の中はくだらないと教えてくれたから、私は傷付くどころか兄の言った通りだったので更に尊敬を深めた。
私はまだ戦えた。でも、彼女はーー
「よけいなことしないでよ!」
彼女のその声は今でも耳の奥に響いている。彼女が亡くなったのはその後すぐだった。
夜になっても帰ってこない我が子を心配した両親は警察に捜索願を出した。その裏で自宅近くの踏切で人身事故があった。今思えば彼女は最後まで一人で戦っていたのだ。
「自分がもっと早く警察に相談していれば…」
葬儀会場の場で幾度もこの言葉が頭の中を駆け巡り、まともに生きていける気が、それよりも生きていていいのか分からなくなり、しばらく学校を休んだ。
その間も兄は「お前のせいじゃないよ。兄さんこそ、お前の力になれなくてごめんな」と、ドア越しに話しかけてくれた。「兄さんのせいじゃないよ」と言いたかったが、感極まって何も言えなかった。
どうにか精神を保って学校に通うようになると、下駄箱に上履きがあったし、机の上の花瓶はなくなり、いじめは消えていた。私の目に見えなくなっただけかもしれないが、あの馬鹿馬鹿しく何の意味もない儀式は私の前から消え去った。彼女の命と引き換えに。

卒業式の前日、彼女の母親から私の家に電話があった。受話器を持つ手が震え、全身から汗が噴き出した。
「お電話かわりました」
「体調は大丈夫ですか?」
「はい、それはもう…」
「それならよかった。実は一つお伝えしたいことがあって」
「なんでしょう…?」
「実はあの子日記をつけていて、その中にあなたのことが書いてあってね。よろしければ明日にでもうちに来れないかしら?」
「伺います。はい、それでは失礼します」
受話器を置くまで終始会話はぎこちなく、何を言われるのか、ナイフを突きつけられたような恐怖があった。自分は生きていていいのかという罪悪感が私を支配していたのだ。
翌日、卒業式が行われ希望に満ち満ちた生徒達は拍手で送り出された。私は歌も唄わず、全ての教師とクラスメイトの顔を記憶に焼き付けるのが精一杯だった。式が終わってから彼女の母親に会い、自宅へと伺った。そこで私を待っていたのは彼女の叫びだった。
「中村くんと同じクラスになった。うれしーけど、また何も話せないまま時間が過ぎてしまうのかな。こわい」
「中村くんと目が合った」
「あたしは何もしてないのになんだかみんながあたしのことを無視するようになった」
「何が悪かったのか分からない」
「誰に謝ればいいのか分からない」
「つらい」
「中村くんがあたしに話しかけてくれた」
「もしかしてかばってくれたのかもしれない」
「今度は中村くんがいじめられるようになってしまった。あたしのせいだ」
「もう、どうしたらいいのか分からない」
「あたしのせいでごめんね。と言いたかったけど言えなかった。もし、あたしよりもひどい目に合わされていたらどうしよう…」
「あたしにかまわないで」
「早く終わって欲しい」
「もうごめんねじゃ済まないのかもしれない」

私は彼女の日記を読んでいるうちにボロボロと涙を流してしまった。
「あの子、どうやらあなたのことが好きだったみたいなの。だからね、伝えておこうと思って。あの子の味方になってくれて…ありがとう」
彼女の母親も涙を流していた。自分はそんな褒められた人間ではないと伝えたくて、兄に言ったことと同じことを告白した。
「違うんです。僕はその、晴香さんのことが好きだったというよりも、あの狭い教室の中でいじめをする一人でいたくなかっただけなんです。僕のせいで晴香さんは…」
「いいのよそれで。だって、もしあなたが晴香のことが嫌いだったら、いじめる側の一人だったかもしれないじゃない。あなたみたいな真っ直ぐな人がいてくれてよかった」
その一言で全身を覆う罪悪感が死滅した気がした。
「娘の変わりに告白だなんて、あの子に恥ずかしい思いさせちゃったかな… よかったらケーキでも食べていって」
「ありがとうございます」
それからどうやって帰ったのかは覚えていない。もしかしたら、あの時、一生分の涙を流したのかもしれない。

「ーーもう彼女はいないけど、彼女のような心優しい生徒が、この世からいなくならないように私は教師になったんだよ」
彼女と全く同じ名前のその生徒は私の長いスピーチを聞き終えると真っ直ぐな瞳をしてこう言った。
「わたしも教師になろうと思います。なれるかどうか分からないけど、でも、考えてみます。ありがとうございました」
チャイムの音がして辺りが静かになり、あの日からずいぶん歳をとったシワだらけの顔を来世の涙が伝った。

✳︎集団生活にはスケープゴートがつきものですが、少子化が叫ばれているなかで子どもらが自殺するのは胸が痛みます。この話を書いたのは2017年の3月で、今は自殺率が高まる9月に差し掛かっています。
ここには救いのある話が欲しかったので、スケープゴートという人間の習性に抗う教師が必要だと考えました。そこから逆算して設定を考えていった感じです。
「いじめられた側はずっと覚えている」ということを「信念」に変える理性的な人間はかっこいいと思って書きました。

#小説 #ショートショート

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