白の愛の話

「食べてく?」『食べてく!』言うことの聞かない前髪を無理矢理とめてテーブルに急いだ。その後朝練なんてなくなればいいのに、と悪態をつきながらローファーを履くわたしを遅れてまた怒られるよ、と見送る母。7時前には家を出るわたしに合わせてお弁当を作ってくれて、朝が苦手なわたしを叩き起こして、見送ってくれて、食器を片付けて、その後仕事に出かける。3年間、ほぼ毎朝。きっとこれが母のルーティンだった。

いつまでママと一緒にいられるか、わからないんだよ。告げられたのはあまりにも突然だった。
自分はパラレルワールドにでも飛ばされたのではないかと、実は夢で、はたまたこれはドッキリで。皆に懲らしめられているのではないかと。信じられるわけがなかった。

遠方の大学に通っていたわたしは、講義の後、友達と飲み歩いたり、好きなアーティストのライブに足繁く通ったりと、朝方帰宅することが増えた。わたしが帰る頃、母は既に仕事に出かけていて、何日も顔を合わせないのは珍しいことじゃなかった。
けれどあの日、母はリビングで朝食を食べていた。仕事遅れるじゃん、なんて馬鹿なことを思っていたわたしは返す言葉が見つからなくて、聞こえないフリをして、部屋にこもった。母は追いかけて来なかった。しばらくして玄関のドアが開く音、それに続けて話し声が聞こえた。仕事、忙しそうだったじゃない。気付けなくて、当然よ。なんて慰めるような、そんな声。

ふと、昔のことを思い出した。わたしがお風呂から上がると大抵母は煙草の煙を吐きながら、気怠そうに資料を眺めていたこと。休日はどこにも出かけず寝巻きで過ごしたこと。そんな日々が、わたしはわりと好きだったこと。

わたしの中で母は強くてかっこいいキャリアウーマンで。そんな母が、いなくなるなんてあり得ないから。1人薄暗い部屋で首を振った。
でも、全てを犠牲にして働いてバカみたい、と母の震える声が聞こえたとき、驚くほどに一瞬で、わたしの視界は滲んで、溢れた。現実、なんだ。込み上がる嗚咽を抑えられなかった。
いやだ、いやだ、否定しないで。幼い私を置いて出て行くその背中に憧れてたんだから。目の奥が熱くなって瞼が重たくなっていって、母の顔を見れなくて、結局その日わたしは部屋から出なかった。
翌朝、目を覚ますと母はいつも通りだった。おはよ、と声をかけるとおはよう、と返す母。キッチンに向かい流れるように冷蔵庫を開けた。
「昔からさ、朝ごはんだけはなにがあっても食べるよね」笑いながら席に着く母を横目にわたしは戸棚からガラスの器を取り出す。グラノーラとヨーグルト。これがわたしたちの朝食だった。テーブルに着いたということは、きっと母も食べるという意思表示なのだろう。2人分をさっと盛り付けて、テーブルに運ぶ。いただきます、と手を合わせてから、んー、安定。とスプーンを動かす母に少し遅れて、わたしも口に運んだ。この空気があまりにも穏やかで、やはり昨日のことは夢だったんじゃないかと錯覚する。確かにそこに存在する母がじわじわと歪んでいく。久しぶりに母と食べる朝食は、ほのかな甘みと優しい酸っぱさなんかじゃなくて、ただただ塩っぱかった。
「やだ、泣かないでよ」『泣いてない』「今すぐいなくなるわけじゃないんだし」あっけらかんと笑いながらスプーンを動かす母が、またぐにゃりと歪んだ。
『ねえ、ママ。』「なあに」『ヨーグルト、ちょうど終わっちゃったよ。』「えー、もう?じゃあ買いに行こっか。」
また明日、新しい蓋を開けて2人で朝ごはんしよ。
明後日も、明々後日も、今までみたいにずっとずっと。

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