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【#なりたい自分】100歳になってもnote書く人

noteの投稿企画で、「#なりたい自分」 というお題が出されていました。
いい機会なので、何か書いてみたいと思います。


しかし、なりたい自分なんて、ちかごろ考えたこと無かったなぁ。
思考が宙をさまよったが、一瞬ののち、ハッ!と思い描いてしまっていた。


100歳になってもnoteを書く人でいたい。
(地味に遠大な野望を抱いてしまった)

そもそもが、100歳まで健康でボケもせずに生きることは、たやすくない。
標準的な人間としての限界は、とうに超えた世界だ。
先天的・後天的・運やめぐり合わせ、等々の好条件が揃った時にだけ現れる蓬莱ほうらいのような境地だろうか。
やみくもに目指して、思いっきり努力しても、辿り着けない。
それ以前にわたしなんて、もともと今に至る何年も前に、死んでいてもおかしくない程に病んでいたのだから、これは高すぎるハードルだ。

病に耐えて生きていたあの頃、
生きるのが辛くて、早く死んで楽になりたいと、いつも思いながら死ねずに生きていた。
40代から50代の10年間、わたしの人生は終わったも同然だった。

しかし、
医師が試みる治療のおかげで、その10年間の闘いから、ようやく生きて離脱することができた。
昔のひとなら、これからの生は余命に過ぎないと言ったかもしれない。
志の高いひとなら、せっかく拾った命だから人のために使おうと言ったかもしれない。

それなら自分は、なにを求めて生きて行くのか、まだよくわからない。
もしかしたら一念発起して、大きなことを始めちゃうかも知れない。
なにもしないでひたすら老いていくだけかも知れない。

でも、ものを書いてnoteに投稿して、誰かが読んでくれる。
これは一生モノだと、感じているわたしがいる。
noteを始めてたった2か月のわたしが書いても、「継続するのは大変なんだよ」と笑われてしまうだろうが。
けれども言いたい。

100歳のおばあさんになってもnoteを書く人でいたい!!


だからこれからは、
あらためて健康にきちんと配慮して体を鍛え直し、身体にも心にもタップリ栄養を与えて生活していこう。
記事を投稿するためにはアタマのみならず、目と指が使えなければ。
そして記事を書くためには、外の世界へとび出して行って、いいモノを見て、愉しいコト不思議なコトと出会って、人の話を聞いて、驚きを感じなければ。
それには健康な足腰はもちろん、時にはクルマを運転したり鉄道を乗り継いだりする能力も必要だ。
PCやスマホも使いこなさなきゃ。
未来を生きるには、もっと思いもよらない能力も求められるに違いない。
がんばろう。

一度は死んだかと思った人生だ。
だからなのか何なのか、
自分のすぐ傍に、死んだ大切な人たちの気配を、強く感じてならない。

わたしが美しいものを見て感動していると、その人たちがわたしの目を通して一緒に喜んでいるのを感じる。
わたしが美味しいものを食べていても、その人たちがわたしの味覚を共有して一緒に満足しているのを感じる。
わたしが立派な人の行いに胸を打たれると、その人たちも涙を流して拍手を送っている。
死んだ大切な人たちが、わたしの体を使って生き続けているかのようだ。
そしてその人たちの喜びが、わたしの中でこだまする。

そのこだまを写し取って、わたしはnoteを書いている。

これから70歳、80歳と、年を重ねて行きながら、歩き続け、書き続けて行きたい。生きたい。

100歳までnoterでいられたら、カッコイイなあ。


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