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私が許豊凡にちょっとだけ救われた話

私はINIの許豊凡のファンである。

前回の記事では私がINIを何故推しているのか長々と語ったが、その中で少しだけ彼のことを話した。彼の多角的な視点や、いかに彼が『グローバルボーイズグループとしてのINI』にとって重要な存在なのかも語ってきた。


許豊凡は私の生活にも欠かせない存在になっている。日々配信されるコンテンツの中では可愛らしく大真面目におかしなことをやって退けてしまう彼の姿を見て元気が貰えるし、ブログでは彼の美しい日本語に心を打たれる。毎日のように送ってくれるプライベートメールでは、彼が好きな音楽や映画に共感したりそこで新しい世界を見つけることもある。あぁ今日も彼は頑張っているんだなと一緒に毎日頑張っているような気持ちにさせてくれるし、また明日も頑張ろうと思える。

そうやって私の生活に馴染んで日々彼から力をもらっている私だが、彼の言動に救われたと感じる出来事があった。


From INI、2022年2月19日放送回のコンプレックスについて語る場面で、髙塚大夢の「身長がコンプレックス。俺も男だもん。男らしいところを見せたい時に可愛いってなっちゃうのが俺は嫌」という発言に対し、「いや、でも俺が思ってるのは、強いとか身長がデカくて強い男だけが男らしいってことはないと思う」と返すシーンである。


そうだよなあと共感しつつ、また「これが女らしい」ということもないのではないかと感じたのだ。 

私は名前の記入欄の横に女性・男性と書かれた部分に何も考えず素直に丸をつけられない人間だ。

戸籍上も身体も女性だし、今までずっと女性として育てられ生きてきた。交際相手になる人は女性が好きな男性で、どこからどう見ても一般的な“女性“である。だが自分が“女性“であることを自分の中ではっきり認められないでいる。

私は幼い頃から恐竜やらロボットのおもちゃ、ロケットや戦闘機を見て遊ぶのが大好きだった。幼稚園に入っていた時は女の子たちのままごと遊びやプリキュアごっこやお姫様ごっこに全くついて行けず、男の子たちと遊ぶか一人で図鑑を眺めて思いを巡らせているような子供だった。


好きなことをしているだけだから特に気にしていることはなかったのだが、小学生に上がる頃、ランドセルを選ぶ時に真っ先に黒のランドセルを選んだ私に母が「女の子だから、赤かピンクを選びなさい」と言われたのを鮮明に覚えている。女の子は何故黒のランドセルを背負ってはいけないのかと意味が分からなかった。

小学校に上がってからも私の好きなものは変わらなかったが、「女の子なのにそんなのが好きなんて変なの」と同級生に言われてからは好きなことを隠すようになった。なんとなくそれらを好きでいることが良くないことなのではないかと感じたからである。周りの女の子たちに溶け込めるように真似をして、それでもなんとなくつまらないなと思って過ごしてきた。
中高は女子校に通い、第二次性徴期は男の子と全く関わらず過ごした。周囲に女の子しかいなかったためか自分が“女性“であるという実感はほんとんどなかった。しかし大学に進学するとそこは共学で、“男性“と“女性“が身体的にも社会的にもはっきりと分かれていたのである。


私は女性として扱われた。当然である。身体が女性だからだ。そこで一般的な社会における“女性らしさ“にも直面し、自分の身体と社会的な側面の“女性“に違和感を感じ始めた。女性だから“こうあるべきだ“というものに合わせなければならないと思った。

初めて交際した相手は女性が好きな男性だった。何故なら私は女性であり、女性である私は男性と交際するのが普通だと思っていたからである。しかしその男性のことを友人以上の存在として好意を抱くことはなかった。その後も、またその後も好意を寄せてくれる男性に特別な感情を抱くことはなかった。私は普通の女らしくないのではないかと焦った。もしかしたら私はゲイなのではないかと思ったこともあった。しかし私は女性に友人以上の特別な感情を抱くこともなかった。どうやら私はゲイというわけではないらしい。

何が“女性“と“男性“を決めるのだろう。好きなものや好きな性別か。私はまだ答えを見つけられずにいる。

私の身体が女性であることに特に不満はなかった。確かに男性より体力や筋肉量が劣っていることは残念だったが、逆に言うとそれくらいである。私は“女性の皮を被った私“なんだと思い生きることにした。時々一般的な“女性らしさ“の価値観に違和感を抱きつつも、その違和感を見て見ぬふりをして生きていた。



そんな時に「強いとか身長がデカくて強い男だけが男らしいってことはないと思う」という許豊凡の言葉が私の中で強烈に響いた。また「男らしいも女らしいも決められたものじゃない」と救われた気分になったのである。

そう言えば女らしいも男らしいも誰が決めたのだろう。誰かが言っていたことをそのまま受け入れてその価値観が“当たり前“であると思ってみんな生きているだけだ。姿形やその人の“好き“が性別を決めるのではない。そして同時に私は“女性の皮を被った私“として割り切って生きているつもりが実は誰よりも「女らしさ」に振り回されていたことにも気がついたのだった。

その後、許豊凡は6月の初めにプライベートメールでカラフルな絵文字を用い6月になったことについて触れた。6月。虹色。私は調べるまで恥ずかしながらこの意味を知らなかった。
6月は『プライド月間(Pride Month)』、LGBTQ+の権利について啓発を促す月である。多様なセクシュアリティに対して彼が認識していたことに驚き、またアイドルである彼がこういった運動や価値観を理解していることは大きな意味を持っているだろうと感じた。そしてまたどこかで私も許されたような気持ちになったのだ。


正直、私はまだ自分の性別を何の躊躇いもなく丸をつけることは出来ない。まだ自分を明確に定義づけることは出来ない。だが、これが好き!ということは恥ずべきことではないし、それで誰かが決めた価値観に従う必要はないのだと自分を少し許すことが出来たのである。

もしかしたら私だけでなく誰もが色んな「違和感」を抱えながら生きているのではないかなとも感じた。きっと彼の言葉に少し救われるような人もいるのではないだろうか。


許豊凡にもたくさんの「好き」がある。その「好き」を貫いて今の彼がある。

そんな彼の姿を見ながら、色んな価値観にぶつかり、戸惑いながらも理解し自分も他人も許すことができたらなと思う。




#INI   #アイドル #推し語りブログ #LGBTQ



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