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思い出の風采

2年前に出会った人の記事を、2年間ずっと読んでる。
特に書き方が合うとかでもその人が泣くくらい思い出に残ってるわけでもないけれど、辛くなったり、人生の少し落ち着いてきた時にたまに読み返す。
そんな思い出とか、そんな本ってみんなあるんじゃないかな。知らんけど。

あれからもう2年が経つのかってしみじみ考えていたらなんかデジャブして、そういえば一年前も「あ、あれからもう1年も経つのか」ってしみじみしてたことを思い出した。私という人間は本当に単純でつまらなくて少し面白かった。

2年前って言ったら、私は鬱が少し回復してきて留学を辞めてバイトを始めててんやわんやして少し自暴自棄になっていた頃だった気がする。あんま覚えてないけど。
その時は留学という私の人生プランがコロナでめちゃくちゃになって自分の人生の意味とか今後どうしたらいいのわからなくって、でも世間はこんな状態なのに私だけ置いてってるみたいに進んで行っちゃって、朦朧と「なんか始めなきゃなぁ〜」くらいしか考えれていなかった。

こんなこと急に書いても意味ないんだろうけど、私はさ、
水彩絵の具くれたあの子とか、チェス教えてくれたあの子とか、お誕生日パーティー誘ってくれたあの子とか、依存してきた子とか、励ましてくれた人とか、泣きそうな顔してハグしてくれた先生とか、みんなの事を思い出に残して大切にたまに香ったりしながら生きてるんだよ。
そうなんだけどさ、こうして私が2年前の記事読んでてもさ、書いた人とか私に絵の具くれた子とか、私をいじめてた子とか、みんなは私のことを思い出のフィギュアにしてくれないんだよね。
私が空っぽで過ごしてしまった時期の人々は私の風采を思い出せない。

ちがうよ、そうじゃなくってさ?
思い出してもらえないのが悲しいんじゃないの。虚しいの。
私が忘れてしまえばなかったことになる出来事でしょ?思い出なんて記憶の中でしか存在できなくて、依代がなければ消滅してしまうし。メキシコの「死者の日」ってあるじゃない?ディズニーのCocoにも出てきたあの伝統みたいな感じでさ、忘れたら消えるんだと思うのよ。出来事は出来事でしかないのは分かってるけどそんなそっけない次元じゃなくてよ。
人間、思い出していない間は存在しないんだと思う。
そうやって私だけが持っているから存在している思い出を、自分勝手な都合で手放してしまったらいけない気がしてたまに思い出してる。
嫌なことされた記憶も、楽しかった記憶も。

映画観て帰りに話した会話の内容を覚えてる?
その時の笑ったタイミングや、私の気持ちも私は多分ずっと忘れないと思う。
自転車に乗って餃子屋さんに行った人と見た道中の景色や気温をまだ覚えてる。
トイレに行っただけで心配して電話してきた人のことも覚えてるし、その人の好きなラーメン屋さんといつも頼む飲み物を忘れられないでいる。
一度鴨川で一緒に飲みながら卵食べた人も覚えてるし、酔っ払った時に出会ってお菓子買ってくれたオーストラリア出身の結婚前夜のお兄さんのテンションも覚えてる。
誰かの記憶に残らない部分に生息して生きていってる気がする。
誰かの特別になることもなく死んでいく気がしてる。
別に、悲しくないけど。

この文章がどこに続くのか考えずに書き出してしまったけれど、そろそろ課題やらないと。締め切りが近いから。

NOTEの事も貴方の事も、また思い出したら記事書きにくるね。



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