日本語に敬語はある。

Noteの他の記事に「日本語に敬語はない。」というものがありました。これは違うんじゃないかと思いコメントを付けました。最後にコメントを付けたのが2021年12月25日18時から18時15分の間でした。19時過ぎに見たらコメントが消えていました。折角書いたコメントなのでここに再掲します。

2021年12月21日23時台にコメントを二つ書きました。

第1のコメント

この記事の方法は
「敬語はHと定義される
すると
日本語の観測結果は定義Hに矛盾する
従って
日本語に敬語はない」
です。しかし、Hの正しさが保証されていません。Hは定義でなく仮説です。
科学の方法は
「敬語の定義をHと仮定する
すると
仮説Hは世界の言語の観測結果に矛盾する
従って
仮説Hは棄却される」
です。
科学者は「自分や自分たちが間違っているかもしれない」ことを絶えず考慮します。多くの仮説を立てて多くの観測結果で検討するのが科学の方法です。
Carl Saganは一般向けの啓蒙書にSpin more than one hypothesisと書いています。一般の人は最初に思い付いた仮説で安心してしまう傾向があります。
論文に書くのは検討した多数の中から生き残った一つの仮説だけです。国語学者は「説得力がない」(自分が納得しない)と言いますが、見えない思考(科学的に意味はありませんが、一般の人が納得しやすいかもしれません)に気付いていません。科学者の思考の量は膨大です。検討したが棄却した仮説をすべて書いていては論文が何千ページにもなってしまいます。
見れば只何の苦もなき水鳥の足にひまなき我が思ひかな 水戸光圀(新渡戸稲造の著書より)

注釈 上のコメントは括弧の中の説明を詳しく書き直してあります。

第2のコメント

率直な感想を書きました。
文学部の人たちと接する時に困るのは発言の内容ではなく発言者の「心情」をあれこれ推測されることです。しかも全く見当外れのことが多い。学術の世界では誰が言ったかではなく何を言ったかだけが評価や批判の対象になります。論文への言及はそこに書かれた内容に限定され、それを書いた著者の人格への言及ではありません。国語学を初めとする日本の人文系の研究が真の科学になり、このような常識以前のこと書かなくても良い時代が来ることを願っています。
このままだと国際的な学術雑誌に投稿しても棄却rejectされます。理由は言語学の基本の科学的な方法から逸脱しているからです。科学的な研究を行なう専門家が見れば誰もがそう判断するはずです。
まず基本文献の
Brown and Levinson. 1987. Politeness. Cambridge Univ. Pr.
を読むことを勧めます。
繰り返しになりますが、この助言は善意からです。もしも悪意があれば『敬語の文法と語用論』(開拓社)が刊行されるまで待ちます。掲載予定の論文が良いものとなることを願い手遅れにならないよう事前に助言しました。

2021年12月23日23時台にコメントを一つ追加しました。

第3のコメント

本記事は「敬語」を「敬意によって表現される言語」としていますが、正しい定義と言えません。ホテルを初めて訪れた客に従業員は敬語を使います。敬語の使用がホテルの格式の高さを示すからです。初対面の相手に「敬意を抱く」人はいません。見下している相手にも使います。
敬語は「敬意による表現」ではなく「敬意を表す表現」です。加えて、その「敬意」は英語でdeferenceと言われるものです。相手個人に対して「抱く」心情ではなく、その人の社会的な立場に対して示す態度です。立場は場に応じて変化します。既にB&Lが書いていますが、宗教的な場でバラモンに対して下位のカーストは敬意を表しますが、その下位の人が政府の役人である場合、役所を訪れたバラモンが今度は敬意を表します。
敬語の使用はB&Lが継承するGoffmanの用語で言えばinteraction ritualです。「心情」ではなく社会的な儀礼です。道に唾を吐かない、行列に並ぶ等の行為と同じです。マナーに従わない人は粗野な人物と看做されます。敬語はもっぱら日常の会話で使用されます。新聞の記事や文学作品の地の文はそのような儀礼が排された特殊な場です。

2021年12月25日0時台に返信があったので2021年12月25日18時台にコメントを二つ追加しました。

第4のコメント

テニスの起源は相手の打ちやすい所へ返してラリーを続ける遊びだったそうです。やがてラインが引かれネットが貼られ白黒を付ける競技になりました。今の試合を当時の人が見たら互いに嫌がらせをしていると思うかもしれません。
科学の世界も同じです。徹底した相互批判があります。一般の人が見たら粗探しをしていると思うかもしれません。
科学も競技も専門家は活動の場を日常から切り離します。論争や試合で負けても恥でありません。相手を憎みません。恥は間違いや負けを認めなかったり怒ったりすることです。
科学の世界では論文の評価が著者の人格からはっきり区別されます。どんなに有名な学者の論文でも間違いは間違いです。Carlo Rovelliは一般人がEinsteinを論破した話を紹介しています。それでEinsteinのfaceに傷は付きません。むしろ潔く間違いを認めることでfaceを保ちます。
日常と異なる価値観が支配する場で徹底した相互批判をすることで科学が発展してきました。中根千枝が指摘していますが、日本の文学部(中根は大学と書いていますが)は日常の価値観や上下関係を学術の場に持ち込んでいるように感じます。

第5のコメント

長い前置きを書いたのは国際的な学術の世界で常識の相互批判を一般の人たちに受け入れてもらうためです。
>ポライトネス理論については、よく存じております
自己認識は当人の内面のことなので査読者は立ち入りません。論文の評価を人格と結び付ける考えは無用な問題を発生させます。「ポライトネス理論を知っているならば間違いがない」の対偶は「間違いがあるならばポライトネス理論を知らない」です。科学は論文の評価と著者の人格を厳密に区別します。
本記事の大きな問題を二つ指摘しました。回答がありません。「日本語に敬語はない」は非科学的ですが一般向けのレトリックと理解します。
第一は「敬意を抱く」から敬語を使うという前提です。敬意deferenceは発話者の心情ではなく外に表わす態度です。
第二は新聞の記事や小説の地の文を日本語の代表に据えている点です。ポライトネスは日常の相互作用の中にあります。B&Lが扱う例文は全て会話だったはずです。
B&Lに限らず文献は解説書よりまず原典を読むべきです。暗記して試験に臨む教科書ではないので隙あらば誤りを突く心が大切です。専門の研究者は他人の論文をそのように読みます。

最後のコメントを書いてから1時間も経たない19時過ぎに以上の5つのコメントと他の人たちのコメントが消えていました。「日本語に敬語はない。」の著者がなぜそうしたかは分かりませんが、消えたコメントをここに再掲して科学の方法を一般の人たちに知ってもらう機会にしたいと思います。