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ジョゼはベッドで魚と泳ぐ

田辺聖子の『ジョゼと虎と魚たち』を読んだ。
『ジョゼと虎と魚たち』はなぜか折に触れて私の人生に登場する。こういった作品は多くない。

私がはじめてジョゼに出会ったのは2003年に公開された犬童一心監督の「ジョゼと虎と魚たち」だった。
その後だいぶ経って劇場版アニメの「ジョゼと虎と魚たち」を観た。そして原作を読んだのだけれど、ある機会をいただいて『ジョゼと虎と魚たち』について考える機会があったため、最近久しぶりに原作を読んだ。

実は原作はとても短い。言い換えればあっさりしている。そう感じるのは、私とジョゼたちとの出会いが映画だったからか。
身体障がい者のジョゼを田辺聖子はとても平等に描いていると思う。だから、淡々としているのかもしれない。けれど、淡々とした言葉のひとつひとつを咀嚼していくととても重い。恒夫がジョゼに向ける憐憫や同情を描きつつ、外側にいる作者はとても現実的だ。

今回原作を読むにあたって注目した点はピュグマリオニズム。ピュグマリオニズムとは、簡単に言うと人形を性愛の対象とすること。
なぜ、『ジョゼと虎と魚たち』がピュグマリオニズムと結びつくのか?
それは、田辺聖子が描いたジョゼの表象による。恒夫はジョゼのことを「市松サンのような美しさ」と形容する。

胡粉を塗り重ねたようなすべすべした白い肌と、ちまちまと小さいがよくととのった市松人形のよう

田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』角川文庫

そう、ジョゼは人形のようにとても美しく、そして脆い。麻痺によって下肢を動かすことができない。他者に頼らないと生きていくだけでも非常に困難だ。

そんなジョゼは、恒夫と出会うまで祖母とふたりで暮らしていた。祖母は障がい者のジョゼを世間から守るという題目のもと、世間に出したがらない。これは、ある種の「恥」が表されていると思う。そして、この作品が「ケア小説」と呼ばれる所以でもある。第169回芥川賞を受賞した市川沙央の『ハンチバック』によって、「ケア小説」の文脈が注目度を高めているように思う。今度ちょっと書きたい。

ジョゼに話を戻す。ある日、祖母は珍しくジョゼと外出するのだが、祖母が一瞬目を離した隙に、ジョゼは突如「悪意」を感じる。
瞬間、ジョゼを乗せた車椅子を誰かの悪意が押した。坂道を転がり落ちるジョゼを受け止めたのが恒夫だった。
この出会いがきっかけで恒夫はジョゼ一家に関わることとなる。障がいをもって以降、外の世界を「見て知っていた」ジョゼがほぼはじめて「触れて知った」優しい経験が恒夫である。

だがその恒夫の優しさは、健常者ゆえの無知からくるものだ。だからまっすぐに可哀想だと言え、不憫さと同時に愛おしさを覚える。
ジョセが幸いだったことは、外の世界を知らなかったこと。私のようにその恒夫の優しさを残酷だと思わずにいられたこと。気付いていたかもしれないけれど、それでもジョゼにとっては唯一で絶対な外の優しさだったのかもしれない。

はたから見ている部外者の私は、ジョゼってなんて高飛車で我儘なんだろうと思うけれど、それはこの作品が終始恒夫の視点を通しているから、という話を聞いて腑に落ちた。
私たちは、恒夫を通してジョゼを見ている。恒夫はジョゼの特別だから。障がいを抱えて生きねばならないジョゼはそれを引け目に感じていて、祖母や社会の大人たちには自己主張をあまりできない。
だから、ジョゼの甘えたい気持ちはすべて恒夫に向かっている。
恒夫とジョゼは似ている。それぞれの見ている世界が違うことを知らない、というところが。だから幸せだったのかもしれない。ハンデと美しさを持つゆえに甘えることを受け入れられることと、自分しか頼る人間がいないというままならなさに愛おしさを覚えるという共犯関係は、すこしの背徳感とそれなりの濃度を持つものだ。

「一ばん怖いものを見たかったんや。好きな男の人が出来たときに。怖うてもすがれるから。…そんな人が出来たら虎見たい、と思てた」

田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』角川文庫

そう述べるジョゼは、自分が庇護される存在であることを受け入れている。
ジョゼと恒夫が共に旅行した場所は少ない。原作では水族館と動物園だけだ。
どちらも、自由に生きることを奪われた生き物が囲われた場所だ。結局、ジョゼが見た虎も人に飼われた虎なのだ。
けれど、実写の映画は少し違う。水族館は閉園で、魚を見られなかったジョゼはゴネて恒夫と海モチーフのラブホテルに宿泊する。

原作とアニメを観て驚いたのだけれど、私がいちばん好きだったシーンは犬童監督の映画オリジナルのシーンだった。
私はこのシーンがいちばん好きだ。
ジョゼがふかふかのベッドのなかで映し出された魚と泳ぐ、このシーンが。

自由のきかない人形でも、飼われた虎や水槽の中で泳ぐ魚でもなく、ジョゼとして生きているこの瞬間がいつまでも続けばいいと思った。

けれど、そんなジョゼを見れば見るほど、恒夫とジョゼの生きる世界の壁を感じてしまう。彼らがずっと泳いでいくにはどうしたらよかったのだろう。ふたりがともに生きていくということは、ジョゼと恒夫のピュグマリオニズム性を受け入れるしかないのだろうか。
やっぱり生きることはままならない。

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