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三千世界への旅 倭・ヤマト・日本4 古墳時代に起きたこと


引き続き「倭」と呼ばれた理由


いわゆる倭の五王時代について記した南宋の歴史書で、中国側が弥生時代から当時の日本を呼んでいた「倭」という名称が使われているのは何を意味しているんでしょうか。

この時代、日本列島に大陸・半島から多様な勢力がやってきて、人口の大きな部分を占めるようになったこと、それらの勢力や先住民である弥生人勢力による闘争があり、倭の五王が統治する古墳時代の国家が形成されたといったことを、南宋は情報として知らなかったんでしょうか?

南宋は中国のうち南側エリアを支配した国ですが、それでも東アジアでは突出した大国です。

かつて中国全体を支配した漢帝国の中心は北側の黄河流域にありましたが、南宋の時代、北側エリアは遊牧民・騎馬民族による侵略や征服で、不安定な状態にあったようです。それに比べて漢人による安定した国家だった南宋は、当時の中国を代表する国家でもありました。

だから倭の五王も北側エリアではなく、南側の南宋に朝貢したんでしょう。

元々中国大陸の南側エリアは沿岸部や揚子江流域の水運による経済活動が盛んで、中国国内だけでなく周辺の国々も盛んに商業活動をしていたようですし、倭もそうした国のひとつでした。それ以前に中国を代表する大国だった北側エリアの魏が滅んでも、倭が南宋と国交を結ぶことができたのは、そうした商業をベースにした交流があったからと言えるかもしれません。


中国側はあまり気にしていなかった?


となると倭国、当時の日本列島で起きた民族・政治的な大変動の情報は、南宋にも入っていた可能性は高いような気がします。

それでも南宋が当時の日本列島から朝貢してきた国を「倭」と呼んだのはなぜでしょう?

ひとつ考えられるのは、南宋にとって倭国の変化はたいしたことではないと受け止められていたかもしれないということです。

中国側の大国である南宋にとって、倭は朝鮮半島の沖にある小さな島国です。そこに住んでいるのは彼らにとって倭人であり、そこから国家としての認定を求めて朝貢してくる国は倭国であるということなのかもしれません。

つまり、そこに大陸や半島からどんな勢力が移住して、どんな民族構成の変化や戦乱や新しい国家の樹立があろうとたいしたことではないということです。


邪馬台国からの継続性?


もうひとつ考えられるのは、五王時代の倭国に、邪馬台国から続くなんらかの継続性があったんじゃないかということです。

それは必ずしも卑弥呼時代の女王・王の王朝がそのまま続いていたとか、国家としての組織がそのまま維持されていたということではありません。

古墳時代に大陸・半島から渡ってきた勢力が、戦乱を経て新たに全国を平定し、新しい国を建てたとしても、それ以前の弥生時代から続いていた宗教や伝統的な価値観を踏まえた統治が行われたとしたら、それはある程度、国家としての継続性があることになります。

しかし、戦乱のバトルロワイヤルを勝ち抜いて新しい支配者になったのなら、新しい名前の国家を建ててもよさそうなのに、それをしなかったのはなぜでしょう?

たぶんそれは新しい支配勢力の力が、そんなに圧倒的なものではなかったからでしょう。


古代の征服と統治


古代史で戦争による支配の交代というと、勝者側が敗者側の男性を皆殺しにしたり、全員を奴隷にしたりして、まったく新しい国家を建設するといったイメージを抱く人もいるかもしれませんが、古代史のいろんなケースを振り返ってみると、必ずしもそうとは限りません。

古代ギリシャと同時期のオリエントで大帝国を築いたペルシャは、各地域の統治システムをそのまま残して支配したと言われています。

地域に対するグリップが弱かった分、全体としての軍事力であまりスケールメリットを発揮できず、小さな新興国マケドニアのアレキサンドロス率いる騎馬軍団の機動力にやられて滅亡してしまったわけですが、続いてこの地域の覇者となったアレキサンドロスもオリエント世界の各地域を武力で支配するかわりに、彼が信奉するギリシャ文化のシステムによる新しい統治を導入しています。

一方、アレキサンドロスが憧れた古代ギリシャは、統治という意味では稚拙で、都市国家どうしが戦争を繰り返して、勝者が敗者を大量殺戮したり、奴隷化したりしていましたが、結局そのせいで都市国家という小規模なシステムのまま衰退していきました。

その反省に立って、周辺地域を武力で平定しながら敗者側を同盟国として迎え入れたのが古代ローマです。ローマは同盟を拡張するかたちで、大帝国へと発展していきました。

中国で黄河流域の国々を平定して古代帝国の先駆となった周は、各地域の国々を滅ぼしてひとつの国家を構築するのではなく、国々の存続を認めた上で統治する、いわゆる封建制をとっています。

その後の中国は長い戦乱の時代が続き、その間、様々な統治のシステムが考案されて、色々な国で導入されましたが、最終的に勝者となった漢は、軍事力だけでなく、儒教のような社会的・倫理的な思想と、それを基盤に統治を実行する官僚機構を発展させることによって、長期的な国家運営を実現しています。


負け犬の吹き溜まり?


一方、古墳時代の日本列島に渡ってきた様々な勢力のうち、どれかひとつの勢力だけが圧倒的な武力を持ち、他の勢力を打ち負かして強力な支配体制を構築するのはおそらく難しかったでしょう。

彼らは中国大陸で起きた民族大移動、遊牧民・騎馬民族の南下によって押し出されるかたちで、故郷を追われてきた人たちだったと考えられるからです。古墳時代前半の日本列島は、大陸・半島で起きた闘争の敗者、負け犬の吹き溜まりだったと言ってもいいかもしれません。

古墳時代の人体をDNA鑑定した結果から浮かび上がったのは、中国大陸や朝鮮半島の様々な土地から渡ってきた多様な勢力が、日本列島の各地に住み着いたというということでした。

したがって、どれだけの兵力を持っていたか、馬や鉄器をどれだけ使いこなすことができたかなどによって、武力の差はあったでしょうが、最初から圧倒的な力を持っていた勢力はいなかったと考えられるのです。


新しい国家の形成と巨大古墳


そうした多様な勢力の分散状態から統一国家が生まれるには、武力によるバトルロイヤルがあったかもしれません。そうした闘争の勝者になり、国家としての支配体制を構築するには、支配下にある地方勢力に対する力が必要です。しかし、そこでものを言うのは必ずしも武力だけではありません。

邪馬台国の卑弥呼や壹与のように、男王を立てたら戦乱がおさまらず、宗教的な権威を持つ女王を立てたら連合国家がなんとかまとまったというケースもありますから、多くの地方勢力が納得するような宗教や伝統的な価値観を取り入れて、新しい国家のシステムの基盤にするのも有効です。

全国に造られた古墳やそれを飾った埴輪、そこで行われた祭祀には、そういう国家の力を権力側だけでなく、地方勢力も含めた全体で共有する仕組みだったのかもしれません。

前方後円墳がすでに邪馬台国時代に出現しているとしたら、そこから百数十年後に大阪平野などに巨大な前方後円墳が造られたのは、単に新しい支配者の権威を誇示するためというより、邪馬台国時代からの伝統的な体制を受け継いだ政権であるということを、全国的に確認して地方勢力を納得させるためだったんじゃないかという気もします。


融和的な統治の技術


国外からやってきた勢力による征服とか、戦乱からの天下統一で、新しい国家が誕生した場合、力だけに頼った支配は長続きしないものです。

中国で言うと、軍事力で戦乱の時代を終わらせて生まれた秦は短命に終わり、その後生まれた漢は儒教や官僚による統治システムによって長続きしました。やはり戦乱をおさめて誕生した隋も短命でしたが、その後に続いた唐は仏教をベースに、当時としては画期的なグローバルシステムによって繁栄しました。

ちなみに唐は遊牧民・騎馬民族によって建国された国です。それまで五胡十六国の時代から中華平原は様々な遊牧民・騎馬民族に征服されたり、漢族による国土奪回があったりと、不安定な状態が続いていましたが、唐はこうした力による不安定統治を乗り越えて、融和的で先進的な統治を実現した最初の騎馬民族王朝になりました。

遊牧民・騎馬民族の強みは機動力を生かした武力だけでなく、広い活動範囲から生まれた情報力や、異民族と交流してお互いに利益を得るグローバルなシステムの構築力です。唐の時代にシルクロードは漢の時代より発展し、ユーラシア大陸の経済や文化を活性化しました。

この遊牧民方の統治システムは元でさらに発展し、大元ウルス/モンゴルウルスと呼ばれる広大な経済・文化圏を作り出しました。


多様性の国?


倭の五王が古墳時代に大陸・半島から渡ってきた農耕民なのか、遊牧民・騎馬民族なのか、弥生時代/邪馬台国からなんらかの流れを汲む人たちなのかはわかりませんが、いずれにしても弥生時代から古墳時代にかけての倭国では、戦乱の時代があったとしても、そこで生まれた統一国家には、様々な勢力の価値観を取り入れて彼らが納得するようなシステムを構築するといった融和的な統治システムが生まれ、機能したんじゃないかという気がします。

たとえば縄文時代に勾玉がすでに存在していたという話を「縄文」の記事で紹介しましたが、考えてみると、古墳時代から飛鳥時代を経て誕生した大和朝廷の三種の神器のうち勾玉は縄文時代から弥生時代、鏡は弥生時代、剣は古墳時代を象徴する宝物です。それらにはそれぞれの時代に、神秘的な霊力が宿っていると信じられていました。

時代が移っても、新しく権力を掌握した勢力は古い勢力の宝を受け継ぎ、自分たちの宝に加えることで、新旧勢力の融和をめざしたわけです。

日本に八百万の神々がいるのも、新しい勢力が古い勢力の文化を根絶やしにせず、それらをある程度尊重しながら統治してきたことのあらわれかもしれません。


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