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三千世界への旅 縄文4 日本人はどれくらい縄文人なのか

弥生人との融合

去年から縄文時代のことをあれこれ本で調べているのは、日本人の中に縄文人のDNAや価値観がどれくらい残っているのか、大陸から朝鮮半島経由で水田耕作を日本に伝えたとされる弥生人と彼らの社会・文化的システムは、どんな具合に縄文人のそれに取って代わったのかといったことが気になるからです。

かつては弥生人の稲作文化が縄文人の狩猟採集文化を圧倒し、縄文人はごく一部が弥生人社会に融合しただけというイメージがありました。

しかし最近は縄文時代を単なる狩猟採集の時代ではなく、人が定住して家や倉庫や集会所などの建物で集落を作り、採集した植物の様々な実を組織的に管理・加工したり、育てたりするようになっていった時代、農耕への移行が模索された時代と考えられるようになってきたようです。

水田耕作も、弥生人が一方的に日本列島に広めていき、縄文人は彼らに一方的に追われたり、支配下に組み込まれたりしたわけではなく、縄文人が時間をかけて水田耕作を受け入れていったケースも見られるといいます。

つまり、これまで考えられてきたよりも大きく複雑な融合が縄文人と弥生人の間にあったということです。


持続可能性のヒント


僕が縄文文化に惹かれる理由のひとつは、弥生時代の千数百年に比べて、縄文時代が10倍くらい長く持続したことです。

経済的な生産効率から見ると、大陸・朝鮮半島からやってきた弥生人の食糧生産システムの方が、圧倒的に効率的だったから、縄文文化は短期間で取って代わられてしまったと見ることもできますが、それでも一万数千年持続した縄文文化は、千数百年の弥生時代や、古墳時代から現在までの1700年に比べて、持続可能性という意味で、優れていたと見ることもできます。

そういうことを考えているうちに、『ネアンデルタール』を読んで、30万年以上ユーラシア大陸で繁栄したネアンデルタール人に興味を持ったので、そこから考えたことを先に書いたのですが、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスについて言えることが、もしかしたら日本での縄文人と弥生人についても言えるんじゃないかという気がします。


太平洋の向こう側


もうひとつ、縄文人・縄文時代が単に日本人のルーツであるというだけでなく、もっと広がりを持っているんじゃないかというのも、ずっと気になっている点です。

たしか6年くらい前に国立博物館で、全国の出土品を集めた大規模な縄文展が開催されたとき、長さ数メートルのトーテムポールみたいなものが展示されていました。全体がほぼ真っ黒で、そこに掘られている動物はよく見えませんでしたが、かすかに見えたものは、北米先住民のトーテムポールのそれに似ていました。

また、この縄文展で見た様々なデザインには、メキシコ先住民の遺跡で見たデザインに通じるものを感じました。そのデザインは、大きな括りでは縄文人にルーツを持つと言われるアイヌのデザインに通じるものでもあります。

縄文時代がスタートしたとされる15000〜16000年前といえば、ユーラシア大陸から人類がアラスカ・北米大陸に渡る前ですから、縄文初期の人々と共通項を持つ人々が、今の日本列島だけでなく大陸やサハリン島などにもいて、その一部がアメリカ大陸へ渡ったと推測することもできるのではないかと思います。

当時は寒冷期・氷河期ですから、海は後退していて、大陸との行き来も、今から考えるより簡単だった可能性があります。


海・川を行き来する人たち


縄文時代の全盛期と言われる中期はそれから1万年くらい後で、地球は温暖化が進み、海面は上昇して、海岸線が今の平野部まで入ってきていました。

縄文遺跡からは丸太舟があちこちで見つかっていますが、当時の縄文人の中には舟で川や海を行き来する人たちがいたようです。

縄文時代の終わりから弥生時代の初期にかけて、朝鮮半島から様々な農作物や器具が九州北部に伝わったとされていますが、それらを仲介したのが誰だったのかというと、それまで少なくとも数千年、海を行き来してきた海洋民族的な縄文人だった可能性があります。

これは僕の空想ではなく、先日テレビで紹介していた説です。

『魏志倭人伝』には、倭人の典型として、鯨面文身(ゲイメンブンシン=顔から体まで刺青で覆っていること)して海で漁をする海の民的な人たちが紹介されていますが、これも集団で水田耕作する農耕民としての弥生人とは異なる人たちですから、縄文時代から海辺で海産物を採って生きてきた人たちの子孫と推測できます。


縄文人の生き残り方


こんな感じであれこれ考えていくと、一万数千年続いた縄文時代が、大陸・朝鮮半島から来た弥生人による水田耕作とその社会システムによって滅亡したとは一概に言えないのではないかという気がしてきます。

国家など支配のシステムは弥生人によって作られ、確立したとしても、そのシステムの下で生きる民の中には、弥生人だけでなく、縄文人もいて、農耕社会に同化した部族・地域集団もいれば、同化しなかった部族・地域集団もいて、その周辺を取り巻く海や川や山など、彼らのテリトリーで自分たちの特性を活かしながら生きたりしたのではないか。

弥生的な支配から統一国家としてのヤマト政権の支配へと時代が移っても、彼らの信仰や共同体、美意識などの価値観が社会の底辺で生き続けたから、日本の宗教に膨大な数の神々がいたり、日本の社会に支配のシステムが建前でしかなく、その下で本音の世界が存在したりするといったことになったんじゃないか。

そんなことをここ1〜2年考えています。

まだ勉強不足なので偉そうなことは言えませんが、縄文人と弥生人について考えることは、日本人が何者なのかを考えるためのスタートになりそうな気がしています。

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