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倭・ヤマト・日本14 半島情勢の混乱と壬申の乱


唐の使節団2000人の謎


ここで改めて気になるのは唐の使節団、郭務悰ら2000人です。

『日本書紀』によると、彼らは671年の11月2日に対馬にやってきて、10日にその知らせが筑紫の太宰府へもたらされています。

翌672年3月18日、朝廷が安曇連稲敷(あずみのむらじいなしき)を筑紫に遣わし、天智が崩御したことを郭務悰らに伝えたと言いますから、この使節団はそれまでに対馬から筑紫に移動していたようです。

天智の死を知ると、彼らは全員喪服を着け、哀悼の儀式を行なって、唐の皇帝からの国書と貢物を倭国側に奉ったと『日本書紀』には書かれています。そして5月12日、朝廷が返礼品として甲冑や弓矢、布・綿などを彼らに賜り、30日に帰国の途についています。

壬申の乱が始まる1か月前です。

事実が『日本書紀』の通りだとすると、国交の妨げになっていた天智が亡くなったことで満足して引き上げたということなのかもしれませんが、タイミング的に大海人側・近江の大友側とも壬申の乱の準備をしていた時期なので、危ないから引き上げたのかもしれません。

しかし、彼らが2000人の大人数でやってきて、対馬・筑紫に半年も滞在していたとしたら、そもそも何の目的で来たのか、壬申の乱に何の関係もなく、何の影響も及ぼさなかったのかといったことが気になります。


誰かが使節団を呼んだのか?


『日本書紀』には、壬申の乱の初期、大友と臣下たちが大海人の挙兵に慌てて会議を開き、全国に使いを出そうと決めたとありますが、これは大海が挙兵した6月26日より後のことですから、近江からの使いが筑紫や吉備など西国に到着したのは早くてもその数日後だったでしょう。

つまり唐の使節が出発してから1か月くらい経っています。

しかし、そもそも使節団が671年の11月にやってきたとしたら、天智が亡くなる1か月くらい前です。『日本書紀』では翌年3月に天智の死を知らされて、全員喪服で哀悼の儀式を行なったとしていますが、なぜ彼らは喪服を用意していのか不思議です。

天智が発病したのは9月ですから、倭国政権の何者かが、大王が重病だということを知らせ、呼び寄せたのだとしたら、天智の死を見越して喪服を用意していたということもあり得ます。

しかし、そうなるとまた別の問題が出てきます。

まず、この使節団を呼んだのが大友側だったのか、大海人側だったのかということです。

普通、政権の中枢にいる大友側が外国の勢力に大王重病の情報を漏らすことはあり得ないでしょうから、呼んだのは大海人側ということになります。

だとしたら使節の目的はそんなに平和的なものではなかったかもしれません。天智の死と、近江政権打倒の戦いが近いことを見越して、唐側に援助を求めたといったことが考えられます。


反乱を支援したのは唐なのか?


2000人という数は、全国的な動乱の軍事力としては中途半端ですが、唐の使節が九州にやってきたと知れ渡れば、西日本の豪族が近江側につかないよう牽制する効果はあったかもしれません。

大友側が筑紫の司令官や豪族たちに出兵を命じても、彼らが拒否した理由のひとつに、こうした唐側の動きがあったことも考えられます。

彼らが壬申の乱の直前に帰国したという『日本書紀』の記事は、この説と矛盾するように思えますが、唐の使節は乱の間も滞在していた可能性はないわけではありません。

『日本書紀』の編纂当時、唐の使節が乱に関与していたことを伏せたい事情があったとすれば、帰国のタイミングを乱の前にしたと考えることもできるからです。

たとえば、665年の時点で唐と倭国の国交が回復しているのに、唐の使節が援軍として乱に関与したとしたら、公式には国交が成立している政権の打倒に加担したことになりますし、反乱側である大海人/天武を支援したことになります。『日本書紀』が完成した720年は奈良時代で、唐と日本は親密な関係にありましたから、こういうややこしい話は伏せたかったのかもしれません。


唐人と旧百済人の混成集団という謎


しかし、もうひとつ別の可能性も考えられます。

この郭務悰ら2000人が、「唐の使節」ではないという可能性です。

『日本書紀』には671年に筑紫へやってきた郭務悰ら2000人の内訳として、「唐使の郭務悰ら600人 送使の沙宅孫登(百済人)ら1400人」と書かれています。

つまり唐人と旧百済人の混成集団だったというのです。これは何を意味しているのでしょうか?

もう一度当時の半島情勢を見直してみると、郭務悰ら2000人は唐本国からやってきた公式使節団でないだけでなく、半島の旧百済領にいた唐本国に従順でない唐の勢力と旧百済勢力だった可能性があるのです。

たとえば白村江の戦いの翌年、664年に最初の使節団を倭国に送ってきた駐留軍の将軍・劉仁願は668年、高句麗攻略に参戦せよという本国の司令に背いたかどで流罪になっています。

旧百済領には彼の下にいた唐軍が残ったようですが、彼らは唐本国への忠誠心は希薄だった可能性があります。

そして旧百済領には、当然多くの百済人がいるわけですが、彼らを支配している唐の駐留軍が本国とギクシャクしていたとすれば、唐軍と彼らの支配関係も、安定したものではなかったかもしれません。


唐との国交は壬申の乱の争点ではなかった?


この見方が正しいとすると、唐本国に従順でない唐人600人と、百済人ら1400人は何の目的で来たのでしょうか?

『日本書紀』に書かれているように、天智崩御を悼むために来たのでないことは明らかです。

しかし、大海人側に呼ばれて、壬申の乱で彼を支援するために来たというのも、いまひとつ納得感がありません。

この671年から672年という時期、旧百済領では新羅が唐の駐留軍と戦闘を始めていたからです。

今回、壬申の乱についてもう一度考えながら、前に読んだ武田幸雄の『朝鮮史』や、小林恵子の『白村江の戦いと壬申の乱』の関連箇所を、改めて読んでみたのですが、そこから見えてきたのは、この時期大海人/天武が必ずしも唐寄りではなかったことです。

小林恵子は壬申の乱にあたって大海人・鎌足は、白村江の戦いで敵側だった新羅と密かに連携していたと述べています。

中大兄/天智も、665年の国交回復を容認したわけですから、露骨に唐と敵対していたわけでもありません。


天智と天武はなぜ対立したのか?


となると、壬申の乱で大海人/天武は、天智側の大友と何をめぐって争ったのでしょうか?

唐に反抗的だった天智が665年の時点で、形式的にせよ唐と和解していたのなら、唐との交流を重視する大海人との対立点も、そんなに決定的なものではなくなっていたと考え考えることもできます。

僕が壬申の乱についてこれまで考えていたのは、国家のトップである中大兄/天智が唐に敵対的なままでは、いずれ唐の武力侵攻を招き、倭国が滅びかねないので、大海人・中臣鎌足らが唐と密約を交わし、天智・近江王朝を打倒して親唐政権を樹立することで、唐の侵攻を防いだというシナリオです。

大海人は乱の後即位して天武になり、律令という中国式の法律を定めたり、藤原京という中国式の首都建設を企画したり、中国式貨幣を発行したり、唐からの制度・文化・技術の導入で、倭国が平城京の時代に繁栄する基礎を築いていますが、これら一連の流れは彼が唐と交わした密約に沿って親唐的な政策を推進したということなのではないかと考えたわけです。

しかし、それをいうなら中大兄も大化の改新以来、中国の技術や制度、文化の導入を推進してきた改革者です。基本的なビジョンに対立点はありません。

それでは、白村江の戦いの後、そして665年の国交回復後、彼らの間で何が問題になったのでしょうか?


壬申の乱後、天武は遣唐使を送らなかった 


大海人の親唐的な姿勢というのも、彼について調べてみると、それほど単純ではないと思えてきました。

彼は壬申の乱に勝利して即位して天武になった後、さっそく唐との国交を大々的に開始したのかというと、そうではなかったようです。たとえば彼は自分の在位中、一度も遣唐使を派遣していません。

667-668年つまり中大兄/天智時代の遣唐使の次に倭国が遣唐使を送るのは702年、天武が亡くなり、跡を継いだ持統が亡くなる直前、孫の文武の時代です。

これはなぜでしょう?

彼は飛鳥清御原令で中国式の法制度を導入し、富本銭という日本初の貨幣を発行していますし、彼の存命中にできなかった計画も、妃だった持統や、孫の文武の時代に実現しています。藤原京や平城京という中国式の首都も、薬師寺や東大寺など巨大寺院の建立と、仏教を基盤にした政治も、元々は彼の発案でした。

反唐的だった中大兄/天智の時代に一応国交が回復され、遣唐使が送られているのですから、天武の時代にはもっと交流が活発化してもよさそうなものですが、天武・持統の治世を通じて遣唐使が送られなかったのはなぜでしょう?

これを理解するには、壬申の乱後の倭国の出来事を、唐や半島情勢の変化からもう一度見直す必要がありそうです。


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