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コロナ休みで感じたこと、感じなかったこと

ついに大学も再開してしまった…

4月にはコロナで中止になった大学生活。
一度はこのまま夏休み…などと思っていたのだが、あえなく再開、9時5時生活が幕を開けてしまった…つらい

こういう時の初日などは特に疲れるもので、作業量としては家にいたときと同じかそれ以下くらいなのに家に帰るとどっと瞼が重くなる。ベッドに横たわってそのまま動かなくなってしまうのだ。まさに「だるおも~」状態である。

しかし振り返ってみれば、この2か月というのはなかなか異常だった。

いつもの夏休みや春休みなども同じように2か月間学校はない。しかし、この期間でもバイトを入れていたり暇なときにはサークルやったり旅行したり普通に遊んだり帰省したりとやることがそれなりに多かった。(し、逆に暇を忌避するために予定をわざわざ入れていた側面もある。だって周りは遊んでいるのに自分だけ一人なのってむっちゃ悲しいじゃん)
実はこういういつもの休みって言っても割と忙しい。

しかし、この2か月はまさに「暇」の大安売りみたいな時期だった。
普通の休みとは異なり、今回は「何かイベントをする」こと全体が回避されることとなったことで、全体的な空気として「家に閉じこもってじっと耐える」みたいな雰囲気が漂っていた。これは私にとっては大きなことだった。

なんといっても、強迫感がない!素晴らしい!
普段の休みなら、私の中では「長期間の休みだし時間があるときしかできない-とか旅行とかバイト入れまくるとかをしなければならない」という強迫観念みたいなものがあった。
その理由は何となくだが「周りがたぶんそうしているし、そういう言説が一般的だ」と勝手に思っているからである。正直自分で言うのもなんだけれどこの思い込みは相当厄介だ。

なぜならこういう思い込みをしていると「自分が何をやっていても」(これ本当に何をやっていてもなのだが)、周りのことのほうが優れているように思えてくる。これはバイトをしているときは勉強をしている人に、映画を見ているときはバイトをしている人に、といった具合で正直「自分以外の全世界の家の芝は青く見える」状態だ。やってられんマジで。

それに反して今回は、自由度が制限された。
外に出ること、人と集まること自体に強い制限がかかったため、世界全体として「外には出られない、家で何をするか」というような方向に力が働いたんだと思う。
この状態だと自分みたいな人間は楽だと思った。

なぜなら、大体社会全体の人間が何をしているのか想像がつくからだ。大まかな想像がつけば、「それならまあいいか」的な一種のあきらめや逆に「俺はしてるぜ」的なマウントをとれるようになる。日常的に他者との比較にさらされていることが多い我々は余裕がない時というのが割と多いのだが、少なくともこの2か月の間だけはそのような雑音から遠ざかって別荘でひっそりと隠居生活を送ることができたのだ。

このことから「いかにいつもの時の雑音から逃れられるのだろう」、というそれなりに大きな問いに対する示唆が出てくるような気もするのだがここに書くにはテーマがでかすぎるのでスルーします。

早く身を固めたい。

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