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私と競馬


1・競馬との生い立ち

趣味というか、人生の一部だったりするのです。
私の父がJRAの厩務員であったこと。(既に他界)
JRAがまだNCKだったころ、昭和30年代に九州から馬主の斡旋?で就職したらしい(詳しいことはわからない)
まだ栗東トレーニングセンターがなく、地方競馬のように各競馬場に厩舎があった。父は京都競馬場に来たようだ。
きょうだいの幼い頃の写真(昭和42年だったと思う)を見たことがあるが、馬房の外でタライでお風呂?に入る写真があって、あぁこれが昔の淀なのかと。

今はどうなのかわからないが、競走に勝つと口取り写真をもらえる。
何枚かの口取り写真が立派な額に収まり、家に飾られていたことを思い出す。
その中には白黒でトロッターを引っ張る「繋駕速歩競走」の写真もあったように思う。そんな時代もあったんだな。
各競馬場から、すべての人馬がトレセンに引っ越す。そうして私は栗東トレセンで生まれた。

幼いころからテレビがあり、そして競馬中継が流れていたことも覚えている。
近畿放送(今のKBS京都)と関西テレビ、土日になったらそれだった。
といっても、父は厩務員であったことから休みは月曜日しかない。土日は担当する馬が出走するなら競馬場へ行っていたし、夏になると小倉や北海道に滞在で行くことももちろんあった。夏の小倉へはたまについて行って、滞在厩舎で1ヶ月過ごしたこともあったなぁ。
良くも悪くも子煩悩な父で、厩舎では馬に乗せてもらえたり寝藁の返しをしたり(昼間は外に干してひっくり返さないといけない)そんなことを手伝った幼少期。
時には勝ち祝い(週末に厩舎の管理馬が勝つと月曜日あたりに勝利パーティー、要は飲み会)に顔を出して他の厩務員や、祝いを持ってくる騎手に可愛がってもらったり。私が中学生に上がるころにはそのような付き合いも少なくなったものの、父は馬一筋な生活だった。

2・後継

中学の頃、同級生には親が騎手で、同じく騎手を目指す子もいた。
見事に騎手になった同級生が一人いる。今や調教師。
中には厩務員から調教師になった子もいる。
競馬学校に落ちたけど、調教助手として調教師である父親をを手伝っている子もいた。
栗東トレセン=近所の小学校には同じような境遇の子が集まる。
後輩には3冠ジョッキーもいるし、なかなかのイケメン調教師もいる。
今の若手ジョッキーにも、苗字を見ておそらくあの同級生の子だなーと思う子も。
栗東トレセンに住むと、やはり親の影響なのかトレセンで仕事をする人がいるが、私はそれを望まなかった。

・身長がクリアできなかった

騎手になるには低身長であることが必要。私はガリガリの体だったので体重はクリアできるレベルだったのだが身長がそこそこあったこと。
また、競馬学校というのは「かなり優秀」であることも必須で、それにそぐわなかったのも一つ。元々騎手は目指していなかったのもあるけど。

・3K

「きつい・きたない・危険」
外部からはどう見えているのか、おそらく花形の仕事であろうJRAも、内部から見ると3Kでしかない。
動物相手であることは、いわゆる自由が効かない。
上でも書いているが、休みは月曜日のみ。
住まいは厩舎とは別の社宅だが、基本は朝早く・3〜4時くらいに起きて馬の世話・調教・その他雑用。お昼過ぎには帰ってこれることもあるけれど、不定期だったように思う。
朝晩のご飯(飼葉)やりや、ボロ(馬のうんこ)をすると掃除しないといけないし、お風呂の代わりにシャワーを浴びせてキレイにしてあげたり。噛みつかれたり蹴られることもあった。蹴られて病院に入院することもたまにある。身体中アザだらけになっていた。
定期的に「泊まり」といって、厩舎に泊まって夜中の当番作業もあるし、見た目の華やかさとは裏腹にかなりハードな職場でもあったと思う。
給料の額は知らないが、休みのことと労働量を考えるとそんなには貰ってなかったように思う。
もちろん管理馬が勝てば進上金といって賞金が入ってくるので、勝てる馬を管理していればそれなりに裕福な生活はできるが(厩務員は賞金の5%)勝てなければ給与とボーナスくらい。まぁでも父はしょっちゅうパチンコに行っていたし、外食にも良く行ったのである程度裕福な方だったのかもしれない。(社宅だから家賃が数千円だったようなのでそれもあるだろう)
父はどう思っていたのか今更聞くこともできないが、たぶんトレセンに居てほしいと思っていたんじゃないかな。本当に馬が好きだったから。
けれど、私は外に出たかった。
高校を卒業して北海道の牧場に行く、という同級生の女の子もいたし、JRAの職員として就職する子もいた(ウイナーズサークルで後ろに立ってる緑の制服を来た子です。たまにスタンドで案内係をやったりもするそう)
上にも書いたように騎手や厩務員として立派になっている同級生もいる。
反抗期を意識したことはなかったけど、それが反抗期だったのかもしれない。
バケツの中の蛙ではないけど、たとえば競馬関係者は馬券を買うことができないから買ってみたいなーとか(厳密には家族は買うことができる。ダメなのは本人)、競馬村という言葉があるが、決して開放的ではない世界なので、ちょっとおしゃれな外の世界を一度見てみると、戻ろうという気がしなかった。

3・父

私が成人するころには父はJRAを早期退職した。
私は家を出ていたので接点は多くなかったが、父は外部の人間として、自由気ままな生活を送っていた。ここには書けないような色んなことがあったけど、父は父らしく生きていたと思う。
晩年は私も家族を持ってあまり会うこともできなかったけど、たまに顔を出せばテレビは野球か競馬がついていたし、やっぱり父なんだなと。
数年前に父は天国へ旅立ってしまったが、どことなく私の中には後悔の念が晴れない。いや具体的にどうというものではなく本当になんとなく。

4・だからこそ

幼い頃から馬を見てきた。相馬眼があるかどうかといえば無いほうかもしれないが、馬がどういう生き物なのかは父の姿を見て学んで、体て覚えている。
今は一攫千金というよりも馬の走る姿と、その表裏を想像しながら趣味として競馬に興じている。もちろん儲かれば言うことなしなんだけど。
競馬界へ進むことはしなかった若い頃。でも今は今で自分なりに幸せな生活をして、毎週末あーだこーだと競馬を楽しめている。
さすがに父の同僚や仲間の方々は引退や亡くなられている方もいるので何もできないけど、近しい方やそれなりに交流のあった方が現役であれば一票投じたりももひている。これが父への供養となっているのかもしれない。
近々墓参りに行くとするか。
なんだか、すごい言い訳じみたnoteになってしまった。

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