夢見た乙女

 玄関のチャイムが鳴る音で目が覚めた。それでようやく、莫大な金を手に入れて会社に辞表を叩きつけたのが夢であることに気づく。暖かい毛布の中から携帯電話に手を伸ばすと、時刻は早朝の五時だった。
 こんな時間にチャイムを鳴らす人間など一人しかいない。うんざりとした心持ちで玄関に向かう。どうせまた繁華街での仕事から飛んできたのだろう。なにをやっても長続きしない、どうしようもない男だ。
 ドアを開けると、何かが頬を掠めていった。反射的に振り返ると、それは鮮やかな蒼い羽根を持つ蝶だった。同時に、玄関から見えるはずの台所は消失して、縞瑪瑙で覆われた道と、彼岸花で覆われた大地が広がっていた。
「久しぶり、迎えにきたよ」
 一ヶ月したら迎えに行く、と言い残して夜の繁華街に消えていった男が、一ヶ月前と変わらない笑顔で言った。今日できっかり一ヶ月だったことに気づく。
 何から説明を求めるべきだろうかと困惑していると、彼は手を取って縞瑪瑙の道を歩き出した。
「まだ眠い?」
「眠いし、何の連絡もなかったし、ここがどこかもわからないし、困惑してる」
「ここは夢の国だよ」
 夢の国。それは有名なテーマパークを示す固有名詞ではなかったか。しかし、目の前に広がる風景はあの場所よりも現実味がない。彼岸花畑をふわふわとモルフォ蝶が飛んでいる。こんな風景があり得るのか?
「僕が創り上げた世界だ。これからここで暮らすんだよ」
「誰もいないけど」
 真っ先に口をついてでた疑問がそれだった。歩いているのは自分と彼の二人だけで、他には一人だって人の姿は無い。
「いる必要がある? 僕と君以外に」
「そうじゃなくて、生活できるの?」
 確かにこの空間──空間と呼ぶべきか、世界と呼ぶべきか──は美しい。見渡す限りの彼岸花畑に、あちらこちらを飛び交うモルフォ蝶。紫と茜が混じり合う不思議な色の空には、薄らと白い月が浮かんでいる。
 だが、その美しさ故に、生活感というものが一切無かった。見たことはないが、これが冥土の風景なのだと言われたら、間違いなく信じてしまうほどに。
「もしかして、ここはあの世?」
 以前彼が二人で北の海沿いに旅行に行きたいと零したことがある。今の自分達では金銭的に到底無理な話だった。だから、冗談めかして心中するみたいだと言った。
 もしかして布団の中で寝ていたのは走馬灯で、自分は彼と心中してしまったのではないか。
「生きてるよ。ただ夢を見てるだけだ」
「夢を見てるだけじゃ暮らしていけないよ」
「いけるさ。君さえそう望むなら、ずっと夢を見ていられる。ぼくがそう創った」
「私が?」
「そう、全ては君次第だ」
 そう言われて、改めて辺りの風景を見回した。ここには、美しかない。この美そのものの世界で暮らせるなら、それは素晴らしい話だ。
 考えあぐねているうちに、彼岸花しか見えなかった景色の向こうにぽつんと建物が現れた。家だ。平家建ての、しっかりとした門がそなえつけられた、真っ黒な家。赤い彼岸花の中にそれが佇んでいる光景は、ゴシック小説のような趣がある。
「ここが僕達の家だよ」
 門を開いた彼が手招きする。それは、黒い煉瓦造りだった。
 玄関を開くと、居間らしき空間があった。床には絨毯が敷かれており、歩くとふかふかとした感触で足を取られそうになる。先程まで寝ていた布団よりも立派なのではないだろうか。
 今の奥には暖炉があり、パチパチと微かに音を立てながら朱色の炎が灯っていた。まるで童話に出てくるような家だ、とぼんやりと思った。暖炉に近づき、その前に屈んでみる。炎の暖かみが肌に伝わり、これが夢だとは到底思えなかった。
「こっちにおいで、お茶にしよう」
 大きな窓を開けた彼が呼んでいる。窓の向こうは庭になっているようだ。
 庭に降りると、驚くことに小川が流れていた。鮮やかなエメラルドグリーンの水面に、白い月が反射している。
 庭の中央には白いテーブルと椅子が置かれていた。テーブルの上には三段重ねのプレートがある。下からサンドイッチ、スコーン、ケーキと並べられている。その傍らに佇むポットからは、微かに紅茶の香りがした。
「アフタヌーンティーだ」
「行きたいって言ってたでしょ」
「覚えてたの?」
 思わず大きな声を出してしまった。インターネットで華やかな画像が上がっているのを見る度に、一度だけでも行ってみたいと思っていたのだ。けれどどこも大抵良い値段がするもので、到底そんなものを楽しむ余裕などなかった。
 促されるまま椅子に座ろうとして、ようやく自分が寝巻きのままだったということを思い出す。
「……着替えとか、ある?」
「別にいいじゃないか。二人だけなんだから」
「そういうことじゃない。私の気持ちの問題」
 この美しい世界でアフタヌーンティーを楽しもうというのに、寝巻きでは格好はつかない。
「きっとあるんじゃないかな、家の中に」
 創造主の言葉としてはずいぶんいい加減だ。
 一度家の中に戻り、目についた扉を開けた。そこには、服を着せられたトルソーがずらりと並んでいた。
 真っ先に目に入ったのは、大ぶりなリボンが胸元を飾っている桃色のトップスと、丈の短い黒いスカートのセットアップだった。流石にこれは若すぎるな、と却下する。その隣に飾られている、白と黒のフリルに飾られたワンピースを着ることに決めた。多少丈が短いが、まあ許容範囲だろう。
 背中のファスナーを下ろして、トルソーから服を拝借する。ワンピースを着て鏡を見ると、お決まりのメイクをした自分が映っていた。まるで魔法をかけられたかのように、一瞬で頭から爪先までめかし込んだ姿に変わってしまった。子供の頃に夢中になって観ていたアニメのようだ。
 出で立ちが変わると、目が覚めて気分も変わってくる。半信半疑であったが、いよいよ彼が本当に夢の世界を創り上げたようだと信じないわけにはいかなかった。
 庭に戻ると、紅茶は冷めた様子もなく湯気を立て、良い香りを漂わせていた。一口飲むと、口の中に甘味が広がった。完璧な温度で管理された、最高級の紅茶だ。
「美味しい」
「どう? 夢を信じる気になった?」
「信じるわ。でもどうやったの?」
 それが一番の謎だった。メカニズムのわからない世界に存在するなど、氷の上に立つようなものだ。それに、彼に霊感があるなどという話は聞いたことがなかった。
「簡単なことだよ。人が夢を見る力を集めて、束ねただけ」
「また誤魔化す気?」
 彼はいつもそうだ。真相に至ろうとすると抽象的なことを言いだしてかわしてしまう。
「違うよ、本当のこと」
「魔法でも使ったっていうの?」
「そうだよ」
 魔法という、普通の人間が聞いたら笑い出しそうな言葉を、彼はなんでもないように肯定した。
「人の夢見る力によって、夢と現実の狭間に存在する高原への道が開かれる」
 そのフレーズには聞き覚えがあった。
「それ、私が持ってる小説?」
「そう。君が働いてる間に読ませてもらったことがある。暇だったからね」
「暇なら……いや、なんでもない。続けて」
 直感的に、今は横槍を入れるべきではないと思って口を噤んだ。
「なんとなくあの話が気になって、色々と調べてみたんだ。そしたら、小説の中に出てきた奇書が実際に存在することがわかった。それでもしかしたら、僕の夢を実現することができるんじゃないかって思ったんだ」
「夢って?」
 仕事も続かず、繁華街をあちらこちらへ飛んでいる彼に、夢があるなど知らなかった。
「君となんの気兼ねもなく、ずっと一緒に暮らすこと」
「そうだったの?」
 なにかトラブルを起こしては姿を眩まし、そのうちふらりと戻ってくる。そんな彼が、自分との暮らしを夢見ているとは思わなかった。
「そうだよ、それしか考えてなかった。僕、すぐ仕事辞めちゃうし、普通に生きられないし、君のこと困らせてばかりだったでしょ。でも、この世界を創ることなら、できるような気がしたんだ」
 言葉が出てこない。てっきり、いつ捨てられるともわからない、その程度の存在としか思われていないものだとばかり思っていたのに。
「嫌だった?」
「ううん、とても嬉しい。そんな風に考えてくれてたなんて、思わなかった」
 カップを持つ手に、彼の大きな手が重なる。二人の視線が交差し、自然と顔が近づいた。
 一匹の蝶が視界の端から二人の間に割り込んできた。よろよろと上下にぶれながら飛んでいるそれは、一見して明らかに弱っている。ゆっくりと高度を下げ続け、紅茶で満たされたカップの中に落ちてしまった。
 弱っている? 夢の世界の蝶なのに?
「ちょっと不具合があったみたいだ」
 不愉快そうに顔をしかめた彼が、カップごと死にかけの蝶を排除しようとする。
「待って」
 咄嗟にその手を止めた。自分でもその理由はわからなかったが、すぐにわかることになる。なにか、か細い声が聞こえた気がしたのだ。彼の手を留めつつ、耳を傾ける。
「たすけて」
 蝶がそう「言った」。美しい光沢のある羽が黒く濁る。染みが広がるように急速に広がった濁りは、ぐにゃりと歪んで人の顔を作った。
 思わず悲鳴を上げて椅子を蹴るように立ち上がり、後ずさる。衝撃で紅茶はこぼれ、紅茶にまみれた蝶もテーブルの上に投げ出された。同時に、彼の手が蝶を叩き潰す。
「ごめん、不良品が混ざってたみたいだ」
「不良品?」
 聞き返して気づく。彼は夢を見る力を束ねて形にしたと言っていた。ならば、その夢達は一体どこからきたのだ? 夢は夢だけでは存在し得ない。
「誰がこの夢を見ているの?」
 思わず声を荒げて問い詰める。彼は口籠った。
 庭を出て、居間を駆け抜ける。再びあのトルソーの部屋の扉を開けた。そこには、トルソーではなく首を吊った少女達が並んでいた。
 腰が抜けて、廊下に座り込む。少女達は、トルソーが着ていた服と、まったく同じ服を身に纏って、ゆらゆらと揺れていた。
 こんな家から一刻も早く逃げ出したくて、廊下を這うようにして外に出た。こんな世界にはいられない。元来た道を戻ろうとなんとか立ち上がり、走り出す。途端、ぐにゃりとした感触を踏んで、足が縺れてまた転んだ。立ちあがろうとして手をついたのは、縞瑪瑙の通路ではなかった。人間の肉体だ。縞瑪瑙の通路だと思っていたのは、少女達の体が折り重なってできたものだった。
 悲鳴を上げて、彼岸花畑の中に逃げ出す。走り出そうとした時、何かがスカートの裾に引っ掛かった。振り向くと、白い手が裾を掴んでいた。その手首には、無数の切り傷がある。見渡せば、彼岸花の正体が見えてしまった。同じように切り傷だらけの腕が、地面から生えている。
「なに、なんなの」
 悍ましい光景から目を逸らしたくて、空を見上げた。浮かんでいるのは月ではなかった。真っ白、光沢のない錠剤だった。
 そうか。彼女達の正体がわかった。
「待って、落ち着いて」
 後を追ってきたのであろう彼に肩を掴まれる。それを振り払って問い詰めた。
「あんた、この子達に何をしたの?」
「……ああ、見えちゃったか」
 もう全部終わりだ、というように、彼は肩を落とした。
「この子達、みんなオーバードーズでしょ?」
 オーバードーズ。<過剰摂取>。少女達は薬物によって、夢を見ている。薬物はなにも脱法のものに限らない。市販の咳止め薬でも、許容量を超えればドラッグになる。
「無理やりやらせたわけじゃないよ。彼女達はみんな見たくて夢を見てる」
「だからって、それを利用していいとでも思ってるの?」
 全て聞かなくてもわかった。まだ未熟で、精神的に不安定な少女達がオーバードーズによって多幸感を得ようとすることが問題になっていることぐらい知っていた。それこそ、繁華街に出ればオーバードーズの依存症になっている少女など山のようにいる。
 この男は、弱い少女達の精神につけ込んで、この夢の増殖機にしたのだ。
「君とずっと一緒にいたいんだ、わかってくれよ」
「最低、どこまで女を馬鹿にすれば気が済むの」
 未熟で繊細ゆえに、十分な判断力を持たない少女達を踏み躙ったばかりか、そんな世界で自分が満足すると思っている、その傲慢さにまた腹が立った。
「君だって僕と暮らしたいと思ってた、そうじゃないの?」
「思ってたわ。でもたった今そんな気持ちは微塵もなくなった。今すぐこの馬鹿げた世界を片付けて、私の目の前から消え去って、永遠に!」
 そう叫んだ瞬間、彼岸花畑であった、傷だらけの腕達が燃え上がった。空中を漂っていた蝶たちも次々と燃え上がり、大きな火の玉と化していく。
「ふざけるな、誰のためにやったと思ってるんだ!」
 頭を抱えた彼が、少女達の肢体の上に崩れ落ちて叫ぶ。
「こんなもの、頼んでないし望んでもなかった!」
 炎は凄まじい勢いで広がっていく。両隣からじりじりと焦がそうとしてくる炎から逃れるため、崩れ落ちた彼を置いて元来た道を走り出す。
 ぐにゃりとした少女達の肢体を踏みつけることに罪悪感を抱きながら、何度も足を取られ転びそうになりながら走り続ける。前方に、世界を覆うような真っ白なベールがたなびいていた。ベールの向こうには何も見えない。まるで、そこから先は何も作られていないかのようだった。
 迷いなくベールの中に飛び込む。その先は、見慣れた六畳の部屋だった。
 帰ってきた。肩で息をしながら、床の上に崩れ落ちる。頭上を黒い何かが揺れた。
 見上げると、首を吊った彼の体がゆらゆらと揺れていた。

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