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子どもだってひとりの「ひと」だから。

厚木市の幼稚園教諭と親御さんにむけた講演だった。記念大会というきっちりした場だったけれど一瞬現実を忘れてしまうようなそんな空間をつくりたくて、けどできなかった。60分という短い時間に何を込めるかを考えたけれど、今から考えれば自分がそこに「会場の皆さんと向き合う」という余白を置けなかったことが反省点。まだまだ先は長い。

僕はどちらかというとプレゼン形式よりは、相手との対話のほうが得意で、そして相手の表情や声の感覚を聴きながらハンドルを切って進んでいきたいといつも思ってる。昨日は幼稚園教諭や親の皆さんに普段とはちょっと違ったチャンネルで人との関わりや教育を見つめてもらいたくて「時代によって変わらないもの」をひとつの点に置いて自分の旅で経験してきた出会いや人の暮らしを話した。今思えばあっち行ったりこっち行ったりしすぎたかなぁ。
と反省会は自分のなかにおさめて本題を。

昨日いただいた記念大会の宣言にこうあった。
これを読んだときに、そのままこう思った。

子どもたちにとっての環境とは「彼らのまわりにいるオトナたち」のことじゃないのかと。

僕はこれまで旅をしてきて、いつのときでも子どもたちのまわりにはオトナの姿があった。市場に子どもを連れてきて子育てしながら野菜やモノを売っているお母さんたち。夏の暑い夜に店の外に出したテーブルを囲みながらお酒を飲んで食べてしているオトナたちとそのまわりで走りまわっている子どもたち。

それはどんなときでも親やオトナといるということではなくて、子どもたちにとっての教育者や保護者としてのオトナじゃなくて、仕事したり友人と楽しんだりするそのままの姿のオトナが身近にいた。ときには真剣に、楽しむときは思いっきり楽しむ、そんなところを見せつけるでもなく、教えるでもなく、そこにいる子どもが感じながら育っていた部分ってあるんじゃないかなぁと思う。

それに対していまの日本は!なんて言うつもりはない。みんな一生懸命だ。
仕事も、子育ても、家のこともみなさん一生懸命にしてはると思う。そのことには一切ジャッジするつもりも意見を言うつもりもなくて、ただただ子どもたちを前にしたときにどんな姿で、どんな心持ちでいるか、というのが僕が伝えたかったところ。

子どもたちは教育として与えられた学校のなかでの生活や、投げかけられた言葉だけを食べて育っているはずなんかなくて、子どはもっとフラットに社会を世の中を、そしてそこにいる人たちを見ていると思うし、そこから自分なりの世界観や人との付き合いかたを自分なりに導き出しているのは「ひとりのひと」として考えれば当然のことだと思う。

その「子ども」という捉えかたが僕はちょっと苦手だ。
相手はもちろん経験も知識も言葉も僕らに比べて劣っている。
けれどもその感受性や世の中を見つめる眼差しと心は僕らとなんら変わらないと思っていて、いやむしろ僕のように変にフィルターがかかってしまっているオトナよりも、もっとフラットに世の中を見つめることができてんのじゃないかなぁと思ったりする。

だからこそ、僕は子どもたちと「ひと付き合い」したいし、そうあるべきだと思ってる。
彼らの前でも自分の子どもっぽいところも、そうじゃないオトナとしてこうありたいというところも同じように見せてあげたいなと思う。

相手が子どもではなく「ひと」として見つめること、とらえる心があれば、意外とすんなり開けてくることもあるのかもしれないなと思ったりする。

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