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家族と向き合えない、その原因は自分が自分にかけたおまじない。

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「どこか家があるんですか?」

「はい。もちろん。僕にも家がありますよ。そこはおばあちゃんが住んでいた家で・・・」とかれこれ5年は言ってきました。僕が真冬のカナダの雪上を走っていたときに、大好きだったばあちゃんは旅立ち、それから僕は自分の荷物を実家から移動させて旅のないときにはこの家で暮らすようになったんです。

家があるという感じというのは、そのまま安心感だと思います。
僕はこれまで帰るところのない旅をしたことがないから、はっきりとは分からないけれども、帰るところがあって知らない土地に行くことと、帰るところがなく知らない土地を訪れることでは気持ちは大きく変わることは簡単に想像することができます。

しかしこのお家が無くなってしまうことになったのです。
屋根が痛んでいることは、ここに家族で集まってご飯を食べるときに建築家をしている父親から何度も聞かされていたのだけれど、そして直す必要が出てくることも知っていたのだけれど、まさか無くなってしまうことになるとは思っていませんでした。それもこんなに早くに。


コロナは僕の家族の関わりを変化させました。

それまで僕は家族にとって「ときどきいる」存在で、せっかく帰ってきているならご飯に行こう、作って食べようぐらいの時間は過ごすけれども、それぐらいのことだったんです。また数日経てば次の目的地や予定があってそこに向かい、またしばらく帰ってこない。それが僕でした。

長いときだと2年半家には戻らなかったし、短くても2ヶ月、日本にいたらひと月に数日いるのが僕の家スタイル。当然家族ともそんなに向き合うはずがないですよね。けれどこのコロナでの自粛期間は、僕に強制向き合い期間を与えてくれました。

「家族より外が大事なのか」
「まさのりがいると緊張感がある」
僕の考え方のこと、家族への振る舞いのことはそうなのだけれど、これまでの僕が家族のなかでしてきたことも含めてポツポツと、ときにしっかりと家族と話し合うことになったんです。

そのとき思ったこと。
それは「家族だからって僕は相手が受け取るまでのことは想像せずに、考え動いてきたのかもしれない」ということでした。

僕は家族のことは大切に思っています。それは家族として生まれることには、偶然ではなく必然があると思っているからです。そして周りのひとや少し離れたところのことも同じように思うこともあります。

けれどそれは僕が見たり行ってきた世界と出会った人により生まれた広さのことで、それは家族のそれとは違うのかもしれません。それは見え方だったり、実際に見ている世界のことかもしれません。

何時間も話し合ったわけではないけれど、けれど同じできごとであっても、それぞれに考えていたことや生まれた感情が違っていたことは、僕には少なからずインパクトがありました。僕は何をやってきたんだろう。と自分のこれまでがドーナツみたいに肝心のところは空っぽだったのかもしれない、という思いに心が染まることもありました。
しかしその感覚と同時に、少しずつかもしれないけれどこうして思うことを言葉にして伝えること、そのときに伝えられなかったけれども、そのときのことを自分の心模様とともに伝えることはこれからできることかもしれないとも思い話を続けました。


なんとも情けないものですが、一番は自分のありかたでした。
家族だからわかってくれるはず。家族だから理解してくれるはず。だって僕は疲れて帰ってきているんだもん。
それは単純に仕事というよりかは、裏表なく生きたいと思い話しながらもどこか外にいると凝り固まっているところがあって、そしてそれが家に戻っているときにはほぐれて、それは僕自身を解放するものでもあるんだけれど、同時に自分を支えてくれていたつっかえ棒をのけることにもなっていて、だからぶっきらぼうだったり、ぼーっとしていたりするのですが。

それは僕の事情であって、家族はせっかくだからと食事の用意をしてくれたり、みんなで集まるタイミングを作ってくれたりしていたのであって、僕の事情とは関係ありません。つまり楽しい時間をと思って用意してくださっていたのです。

それを意識しはじめてからは、少し楽になりました。
心にはいろんな言葉が生まれたり、話題が生まれたりしていたんです。けれど僕はそれを口にしなかったりしていました。僕は疲れているんだからという自分へのおまじないとともに。

けれどもアホなことだったり、誰かの話したことに対して思ったことだったり、誰かの動きに対してだったり、それからこんなことあったという報告だったり、そういうことをポツリポツリと話していくうちに、なんだか喉につっかえていたものが少しずつ小さくなっていくような感じはあります。それと同時にみんなの口数も増えていくような。

まさかこんな話を書くことになるなんて今これを書きながらなんだかなぁと思っています。だって書きはじめは、僕が人生で集めてきたひと部屋を埋め尽くすコレクションにサヨウナラをしたお話を書こうと思っていたのだから。けれどこうしてこの自分と家族の関わりを書いてしまったということは、自分の心のなかでは同じ出来事として紐づけてあるのかもしれません。

だからコレクションとのサヨウナラの話は次回にして、まずはコロナによって生まれた旅をしない自粛生活と、そこで家族と向き合い自分が受け取ったものについて書き残しておこうと思います。

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