「いまを生きる」と言ってばっかりいる僕を全力でアホっぽく説明してみた。
「予定」というものが、それはもう人生にとって無くてはならないものとして考えているのが普通だ。むしろ予定はないと誰かに言おうものなら、おいおまえ大丈夫か!?みたいな目で見られることがある。そりゃそうだ。予定がなかったら普通は大変だ。
けれど予定って、そもそもなんなんだろう。
自分の人生の時間を有効に活用していくためのものなのか、
それとも誰かに迷惑をかけないように持つべきものなのか、
あとは誰かと時間を合わせて何かをするために必要なものなのか。
どれでもあると思う。
けれどそれは、「予定がないと生きていけない」ということではないと思う。
僕は昨年1年間かけてお金を持たないところからフリーコーヒーをやり続けることで、日本で生活していけるか、という実験をしてみた。終わったいまだから、いやぁたのしかったですー!めちゃんこ気づきがありましたー!なんて笑っているけれど、最初は笑えなかった。
無一文からのスタートと決めていたので、東京でATMに全財産を放り込み、レシートをとって自動ドアを出ながらとたんに心が冷えた。そのまま新橋駅でサラリーマンの通勤ラッシュに遭遇したときに思わず叫び出しそうになった。それは自分が、みんなにとっての当たり前、つまり「生きてくのに必要だ」と思っているものごとから無理やりベリっと剥がされたかのようなこわさを感じたからだと思う。
そんなこわい気持ちのままなんとかフリーコーヒーをはじめて、お返しでごはんを食べながらも心はソワソワしながら半信半疑のところもあって、けれどもいつのころからか自分がフリーコーヒーのコンセプトをあんまり話しすぎると、相手に「なにか返してあげなくちゃ」みたいなプレッシャーがかかることが分かってきた。そして、それは確実に現実になり、僕の手元には食べきれないほどの食べ物が集まってしまうことも出てきて、そしてお金を置いていく人も多くなってしまって、所持金が増えてしまうという事態が発生した。
「これはダメだ!」となり、コンセプトを具体的に質問されない限りは、なんでやってるの?と言われても「いやぁ美味しいコーヒー飲んでおしゃべりしたら楽しいじゃないすか!」なんて言いながらいたら、ちょうどよいリターンで旅を続けられるようになってきた。そんな風に、フリーコーヒーを続けながらお返しをいただき日本を旅しつづけていたらいつの間にか「明日はごはん食べられるだろうか」という不安がすっぽり自分から無くなっていることにいつしか気づいた。
それからというものは、だんだん僕も余裕が出てきて、
「別に人通りが多いところでコーヒーいれなくても、1日ひとりでOK」
「予定はおもしろいこと起こるかもしれないから、特に決めないでいよう」
みたいなことを自分ルールとしてはじめてみた。
そしたらどうだ。
その余白がまあ例えは悪いかもしれないけれど、でっかいフタの開いたゴミ箱みたいなものだとして、そこに会う人会う人がどんどん予定やおもしろいことを投げ込んでくるのだ。
「予定ないならさ!明日ここ一緒に行こうよ!」
「泊まるところないならさ!うちに来なよ!」
「行くとこ決まってないならここ行ったほうがいいよ!」
それは僕がその人とコーヒーを通して会話したあとの、僕の人となりをある程度分かってもらったあとのオーダーメイド提案みたいな感じで、予定がとくにない僕は、はい!はーい!ってその提案に乗っかり続けていく。そしたらまたそれが芋づる式に次の流れを呼んでいき、気づいたらびっくりするくらい出会いと気づきの多い日々ができあがっていたりする。
これを僕は行き当たりバッチリ商法と呼んでいる。嘘だけど。
人生経験の少ない、つまりまだ食材が揃っていない子どもたちに「はやく将来こうなりたいという姿を思い描いてスタート切ったほうがいいよ」と言ってどうするのだろう。彼らはこれから大人になるまでたくさん人生の食材や調理法を学べる可能性だってあるのに。彼らに僕らでも想像できない10年以上先の「社会人としてのスタートライン」のために、いまある職業のことばっかり考えさせてどうするのだろう。
僕は人生のこれからに明確なビジョンがなくたってもいいなじゃないかと思ってる。
必要なのは解像度の高いくっきりパッキリしたビジョンではなく、自分はこうありたい、という方向性のようなものだけでもいいんではないんだろうか。
あとは日々訪れる出会いや、気づきによってそれをちょっと方向修正したり、そのフワッとしたものに色をのせてみたり、そんなことで日々をつくっていくことができる。
いまを生きるというのは、将来をくっきりはっきり思い描きそのように生きることではなく、日々生活しながら振り返ったその1日、1日にはっきりと意味や気づきや、出会いやよかったなぁと思えることを見いだせるだけの日々をつくっていけたかということなんじゃないかと思う。
まあ知らんけど。
(これは関西人がよく使うらしい!責任逃れだ!と言われることもあるらしいが、それはもともとの意味とは違っていて、自分はそう思ってるよという意味で僕は使う)
では今日も笑顔でいってらっしゃい!。
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自分が自分でいられること。
旅の日々で自分の心に浮かぶ思いや気づきを読み物として。僕の旅の生き方のなかで、読んでくださる方々の心に心地よい余白が生まれればいいなという…
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