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遍路9日目「遍路は人生のようだ。それも自分のモヤモヤを晴れさせてくれるような教科書付きの。」

へっぽこお遍路と呼ぶことにしよう。僕のFacebookを見てくれている名付け親の小原さんにはいつかお礼をしにいかなくては。

へっぽこお遍路は、起きた朝から足が痛い。筋肉痛とか使い痛みとかだったらいいんだけれど、左足の裏側、外側に体重をかけるとそれこそイタタタタとなる。アーチが荷物の重さに耐えられていないような感じがある。これからも歩くし、足が先に丈夫になってくれるか、はたまた壊れてしまうのか。壊れる前に休むだろうけれど、この先が晴れていかない感じがなんともへっぽこらしい。

けれどお遍路は前に進むのだ。
自分が最高に元気でも、最高に落ちているときでも、はたまた晴れでも、雨でも、足を前に出したら遍路は進んでいく。

僕は自分が立ち止まっているのではないか?あともどりしているのではないか?と思うことが人生で何度もある。そんなときは自分のこれまでの人生ごとこれでよかったのだろうかなんて思ったりする。

けれども遍路は進むのだ。そのとき立ち止まったとしても、杖はその分短くなっていて、納経帳を開けばそこにはこれまでまわってきたお寺の分だけ御朱印がある。これは僕がいまのところ感じている遍路の持つお薬のような効能。必ず進むのだ。前に。そしてそれを実感できる。

本当は人生もそうなのだ。どんなにツラい日々を過ごしていても、いつかそれが晴れたときに「あのときがあったから、いまがある」と言っていたりする。ツラい日々には自分のこれまでを否定しそうになるのに、それからまた立ち直れたときには「これでよかった」と思えたりするのだ。

人生のお薬。コーヒーもそうだなと僕は思うことにした。コーヒーはお薬なのだ。

飲んだひとの心にほっこりした余白を作ってくれるお薬。

その余白でみんな繋がったり、次の何かを見出したり、ときには世界のことを思ったりする。

あぁよく考えたら、僕がこの人生でやりたいことはこれに尽きるのかもしれない。ちょっとだけでいいからお薬になりたいのかもしれない。

誰かに認められたいへっぽこお遍路が、誰かのお薬になりたいなんて言うのだからなんともアホっぽい話だけれど、けれど寝起き10分でこれを書きはじめているのだからきっとそうなのだろう。かっこつけていられる寝起き度ではない。


あやじさんの朝ごはんを食べながら、かすみちゃんの話をして、ふくたさんのお話をして、奥さんのあきこさんの話もしていたら、朝出発してしばらくしたら目の前にあきこさんがいた。ちょうどひくたさんに送ってきていただいたところだった。

あー!西川くん!あー!と言いながらあとから聞いたら仕事ギリギリだった彼女に手を振ってもらいながら、人生ってだれかうえから見とるんかいなと本気で思ったりする。僕は引き寄せというのは自分本位な気がするから、流れに沿ったと言う。もともと流れがあって、僕がそこにうまいこと沿ったときに、物語は流れはじめる。こんなファンタジーへっぽこの言うことは聞き流したほうがいいですよ。

さて、足が痛い。痛い。痛い。

道路の溝で足の角度が斜めになってしまったら痛い。だからなるべくたいらなところを見つけて歩いていく。あと雨が落ちていくあの網のようになったところ、あそこに気をつけておかないと杖がささる。そのまま体重をかけてしまったら多分折れると思う。遍路を歩いていて、弘法大師さんの代わりの杖を折ったらだいぶ凹むと思う。

足が痛い。痛い。肩痛い。ぐらいになってきた。痛めているようでも意外と準備運転が終わると我慢できるぐらいでなんとかもってくれている。

ショッピングセンターにうどんやさんがあったので、早めのお昼と思ったら11時からだって、まだ30分ある。テーブルと椅子がある遍路休憩所がなかにあったので、そこでここ3日書けなかった遍路日記を書くことにした。うぉー!!!!という勢いで書いていたら、後ろにいらっしゃったここで毎日持ち寄ってお茶をされているだろう地元のおばちゃんたちからシュークリーム、苺大福、ミルクコーヒーをお接待いただいてしまった。

もしかしたら自分の気迫あふれるタイピングを見て、こりゃ思い詰めている人だ。これをあげてホッとしてもらおう。と思わせてしまったのかもしれない。そんなことはなくて、ほんとに遍路へのお接待というものは自分でも不思議に感じてしまうほど、相手は自然体なのだ。

ちょうどそこに近所の子どもがいた。それくらいの感じで皆さんお裾分けをしてくださったりする。そうかと思えば、先に進むか、早めにやめるか迷いながら夕方に訪れた19番札所立江寺に入る入り口のところで「お接待です!」と突然お姉さんから紙袋を渡された。

僕の手に取るのを見るや、お姉さんはもう歩いていかれた。ありがとうございますとかろうじてお礼が言えたくらいに。中には飴ちゃんやナッツ、クッキーが入っていた。

あのお姉ちゃんどうしたのかなぁ。なんだか夕方からポツポツと彼女のことを思った。遍路への施しというよりも、何か思い詰めた空気があった。なんとなく遍路に会えずにあきらめて帰ろうとしたその場に僕が現れたようなそんな感じがしてしまうのだけれど、本当のところは分からない。人はみんなそれぞれ。分からないことは分からない。

遍路はそんなところも試される。

遍路をまわるひとたちもさまざまだ。スタイルもマナーも。

歩いている道にはゴミがたくさん落ちている。遍路しか歩かない遍路道にもゴミはある。

遍路の自分が歩いていても気づかってくれる車もいれば、全くそうではない車もいる。

もちろん自分の命は自分で守らないといけないけれど、自分以外のことに感情を持っていかれそうなことが1日に何度も訪れる。そんなときでも、自分の気持ちをしっかりと手綱をしめて持ち続けることができるか。そこが大きいような気がするのだ。

先輩のすめらさんが言っていた。

「あんまり人の裏側を見ようとしてはいけない。誰にでも見られたくないことってある。あんまり裏側を見ようとすると、それはいつしか怨み(うらみ)になる。」と。

今日も勇気を出して、納経所のお兄さんに遍路が野宿をできるところはないですか?とたずねた。お兄さんは優しくここから4kmほど歩いたところに、地元の方がつかっている休憩所がお遍路さんに開放されていて布団もあって、自由に使えることを教えてくださった。

何ごとも尋ねてみるものだ。へっぽこ遍路の今ならできる。普段の僕はこういうの気をつかってしまったり、言い訳をしてしなかったりするから。だから今はへっぽこ遍路の自分に感謝。

もう日は落ちていたけれども、目の前に確かなものがあるとき体はしっかりとついてきてくれる。ありがとう。今日もがんばってくれたね。ありがとう。

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