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意味を見いだせないことをやってみたらいい。

新たな経験で、見える世界が変わること。

3.11から関わりを持たせてもらっている福島県新地町を訪れた。
あのとき仮設住宅でともに多くの時間を過ごした家族は、いまでは移転された山のふもとの住宅地にそれぞれのお家をもって住まれている。
あのときは災害支援、いまは1年に数回教育支援で訪れるこの町で、みんなの顔を見にあいさつに行くのが楽しみだ。

彼らが住む住宅街まで自転車とコーヒーセットを持っていってママの家で淹れながら、さっそくパパが「ビリー!昨日だったらサワラがあったのに!今日はタイしかねえぞ!」
とさっそくお刺身をサッと出してくださった。少し白っぽくなって落ち着いた感じのタイはきっと昨日か少し前のものだろう。

鮮度がいいものがうまいものだと思っていた僕は、
「なに言ってんの!あんなのカタいだけだ!寝かしほうがうまくなんだ!」
とその言葉はキツいけど顔は笑ってる漁師のパパに言われてびっくりしたもんだ。

「サワラ食いてぇなら、ちょうどのぼるあんにゃ(兄貴のこと)が船出すからのっけてもらったらいんだ!」とパパ。
ちょうど夕方まで特に約束もなかったので港まで送ってもらって船に乗せてもらうことにした。のぼるさんも僕の大好きな漁師さんだ。僕の知ってる漁師はみんな優しい。そしてカラダがまあるくて、重心が低くどっしりしている。
36歳のこの瞬間まで僕にとっての漁師さんは、夜中に起きて漁に出る、タバコを吸う、酒を飲む、基本優しい。そんなイメージだった。このときまでは。

のぼるさんと弟さんの乗る船で沖に出た。
とにかく邪魔にならないように彼らの動きを見ながら自分の居場所を考える。
やっていることを見つめて、なんとなく自分なりに予想をしてから、これは◯◯をしているのか?と聞いてみたりする。この日の漁は刺し網漁と呼ばれるものだった。

トイレットペーパーのように細長い網を一直線に浮きとともに流して、しばらく待ってから引き揚げる。狙う魚の大きさによって網の目の大きさを変えているのだそうだ。

陽が落ちる前に網を流し、真っ暗になってからのぼるさんの合図とともに明かりに火を灯して網を巻き上げはじめた。潮に流されるのでリモコンで船の方向を安定させてはまきあげていく。波に浮かぶ網にギラギラした長いものがついている。サワラだ。最初のほうは、イナダという魚も混じっているし、サワラはときどきしかあがってこなくて、今日はイマイチだったのかなぁなんて思っていると、サワラがパラパラと網とともにあがりはじめた、そのうちどんどんとあがりはじめて、氷と海水の入ったクーラーボックスがつぎつぎと満杯になっていった。そうして最後のクーラーボックスも満杯になってしまって、しょうがなく最後の数十匹はそのまま港にあげることになった。

夕方網を海におろしながら、「今日はハズレかもしんないあなぁ」なんてタバコを噛みながら遠くを見て言っていたのぼるさん。これだけ経験のある彼がその感覚を知らないはずがないのだ。僕の考えが甘かった。あれはかまをかけるというか、期待させないための気づかいだったのだとつぎつぎにあがる魚を見ながら僕は思った。

漁がはじまってからの、すばやく引き揚げるときの力強さ、お互いの考えを読み合う共同作業、短く叫ぶ指示だし、そして魚を網から外すときの瞬発力。どれも自分には新しいものだった。少なくとも家で、飲みながらゆったりと目を細めてタバコを吸う漁師さんはそこにはいなくて、けれど僕はそれを漁師さん像だと思っていたのだ。僕は今日初めてほんとの漁師さんを垣間見せてもらったと気づいた。

想像力をもって物事を見ることは大切だ。しかし、自分の想像力なんてそんなもんだ。
本物を目の前にしたときには、あっさりと塗り替えられてしまう。
それは僕にとって予想外であり、ある人にとっては別に知っていたところで、必要ないことなのだろう。

けれど僕は世界を違った目で見てみたい。
それは自分の興味としてある感覚でもあるし、僕がこれからもこの生き方を続けていくために不可欠なものだと思っている。
どうしてか。オトナになるほど自分の感覚の鮮度を上げることが難しくなるからだ。

こんなもんだろう。これはこうだと思う。別に興味がない。
それをしたところで今の自分には必要ないことだから。

こうしてオトナは生活をする。もちろん僕だってそうだ。
けれどもそうして生まれるものは、少なくとも何かを表現したいと夢見てしまう僕にとっては何もない。そんなことしていたら、トークライブのたびに僕の話はうまくなって、しかしそれはただ「上手なお話なのだ」。誰だって同じ話を繰り返していればどんどんうまくなるのは当然だ。けれどそれはだんだんとフィクションになってくる。

心動いた話を、心動かなくなった人が話してたところでほんとに人の心は動かせない。
それを感覚的に知っていなければ、いつでも僕はこの社会でお仕事としては必要とされなくなると思う。だからこそ、自分の感覚をアップデートする、世界が違って見えるような体験をつくりだすことが必要なことなのだ。

想像力だけで考える、どうせこんなもんだろう、はたったひとつの体験だけで崩される。そしてその1回で分かったなんてことはなくて、その先に広がる世界が少しだけ「あぁそこにあるんだなぁ」と垣間見れるだけだ。そしてその先は果てしなく遠い。

いらないことをしたい。
意味を見いだせないことをやってみたい。

得られたものなんて、その意味なんてやってから振り返ったらいいのだ。

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