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ふたりの僕が遍路道を歩いてる。


朝、さあこれから歩くぞ、とはじめる軽い足取りから、こんなぐらいだったらいけると思える背中の重さから、いつの間にやらしんどくなって、気がつけば下ばかり向いて歩いている。今まで自分が自転車でいかに楽をさせてもらってきたかがよく分かる。

自転車はとんでもない峠道でもない限り、ペダルを踏み込めば前に進む。ゆっくりゆっくりであれば、「もうひと漕ぎもしたくない」ような投げ出したい気持ちにもならない。確かに大陸横断のようなときには、いつたどり着くのかという果てしなさはあるけれども、今すぐこの苦痛から逃れたいみたいなことはほとんど経験がない。

同じ旅でも、こんなにも違うものなのだなぁ。
その違いが純粋におもしろい。
カラダが慣れてくるのか、送り返したり、また足したりして荷物がこなれてくるのか、はたまたこのつらさがどんどんと降り積もっていくのか、そんな気持ちになりながら、けれどそれは絶望とか後悔とかとはほど遠く、自分がそんな経験をさせてもらっていることがありがたいなと感じる。そう、いまのところは。あとのことは、分からないけれども、いまをひとつひとつ噛みしめよう。そしたら気づけば明日がくる。

お遍路を歩いている。
道路やお家の外に人いたら、大きな声で挨拶をすることにしている。
たいていは「おつかれさま」とか「お気をつけて」とか声をかけてください。

こないだ日の暮れた真っ暗ななかを6番札所に向かって歩いていたときには、部活帰りだろう中学生がペコッと頭を下げてこんばんは!と声をかけてくれた。僕がお遍路さんだからだろうか、それとも誰にでも気持ちよく挨拶をするのだろうか。

そう、僕にはいまふたりの僕がいる。
お遍路さんである僕と。
僕である僕。

このふたつは一緒にいるんだけれど違う。

お遍路さんの僕は気持ちよく大きな声で挨拶をする。
僕である僕は、お遍路をしていなければ誰かとすれ違うときには、会釈ぐらいしかしない。

お遍路さんの僕は、がんばって珈琲を飲んでいただけませんか?と声をかける。
僕である僕は、今日は西川自由珈琲店OPENですよーと投稿するけれど、誰かに来て!とは言えなかったりする。

お遍路さんの僕は、お遍路さんとしてのマナーを歩きながら考え実行する。
僕である僕は、いまはお遍路さんだからとそのお遍路さんの僕にならう。

おもしろい。こんなことってあんまりなかった。
いつだって僕は旅で、僕が考えたことをやってみるということしかやってこなかったから、誰かの考えた旅に参加するということはしたことなかったんだ。

会社で働くということはそうだろうか。
チームで野球をするということはそうだろうか。
西川家として何かの行事に出席することはそうだろうか。

僕が何かをやってきたように、僕はなにかをやってこなかったんだなと
あらためて思う。やってこなかったことに気づくということは大切なこと。

自分のやってきたことだけで世界を見ることは、なにかを見落とすこと。
やってこなかったけれど、そこにあるものを意識しながら進むこと。そのことが少しだけれど世界の見方を変えると思う。


さて4日目のお遍路さん。
朝、昨日お世話になったご家族にお寺の登り口まで送っていただき、昨日門までは登ったけれどお寺には参らなかった本堂へとじっくりじっくり登ってく。山のうえにあるお寺はなんだかすごく気持ちがいい。なんていうんだろう、それまで広がるまちの風景から、門をくぐって階段を登りながらだんだんとまちの意識が離れていく、そうしてその上のほうにお堂や塔が見えたときに、意識がそれとつながって、いつのまにか少しおごそかな気持ちになっているような。そんな瞬間がとても好きです。

10番から11番へは10km。この旅でいちばん長い距離を歩く。
ゆっくりゆっくり。焦らずに。
地面を蹴るでもなく、すこーしすり足みたいにして歩をすすめていく。

最初あんなに気持ちがよかったのに、いつの間にやら自分の目線は足元に下がり、サンダルの鼻緒のところと、左足の土踏まずの反対側が痛みはじめた。自分が初日に遠くに見かけたおそらく逆回りで歩いてこられて今日遍路を終えられるのであろうかたのその前に突き進むような歩きかたが頭に残っていて、なんともなぁと思いながら、いまの自分を受け入れる。


前から西川自由珈琲店の豆を購入くださっているかたが連絡をくださった。
ちょうど遍路の休憩どころがあったので、そこをお借りして即席の茶席にさせてもらった。
少しでも相手に届けばいいな。
ひとつひとつの所作に、紡ぎ出す言葉に、相手の声に耳を傾けることに。


そこからは3時間あまり歩き続けた。橋をふたつ渡り、とぼとぼとぼと歩いていく。
リュックのショルダーが肩に食い込めば、そこに手のひらを差し込んで重さを我慢し、背中がガチガチになってきたら、リュックごとうつむいてしばらくじーっと待つ。

地図を見るでもなく、ガードレールや電柱にある遍路シールを頼りに歩いたり、ときにはもうもう文字が霞んで見えないような昔の石の案内板を頼りにする。地図がなくたって旅は目の前の一歩を繰り返すことですすんでく。

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