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かもしれない。のまま僕は旅を終えることになるのだろう。

雨が当たらない屋根があって、風が吹き込まない壁があって、そして明かりがあったらそれはもう自分のカラダにとってはじゅうぶんなもの。今回の旅ではテントを持って出ていないので、その空間を自分で作り出すことはできない。あんな薄い布が1枚あるだけで、そこは自分だけの部屋になってしまうのが本当に不思議。

野宿のよさは誰かの場所ということを意識しておけるところ。人の目に映るということは、自分を律するときにはよくできていて、荷物もなるべく広げない。使ったものはその都度バックパックにしまう。そんな借りぐらしの旅だけれど、そのなかのさらに借りぐらしが遍路には合っているような気がする。

通夜堂と呼ばれるお寺の門の2階にある鐘がぶらさがっているところでぐっすり眠らせてもらって、カラダはとてもすっきり。足裏とふくらはぎはしっかりと張っていて、肩はずいぶんマシになってる。大きなリュックを担ぎ歩き出すところで、その日の自分のコンディションがなんとなく感じられる。

あぁ旅ってこんなだったな。自分がこれをいま書きながら思い出してる。自分のチカラで進んでいく旅は、ルーティンが繰り返される。

走る。食べる。寝るところを探す。荷物を広げて寝る準備。寝る。荷物をまとめる。そしてまた走る。

毎日繰り返されるそのルーティンがあって、そこから荷物が収まる場所が定まり、日々同じことをするなかで、その日の体調の変化があるとそれが反応として自分にかえってくるようになる。そうして今日はどういうふうに動こうか、がんばろうか、ゆっくりしようか、そんなことも自分のいちにちの動きの判断材料になるのだ。

よかったまだ自分は旅人に戻れそうだ。

昨日納経できなかった6番さんでお経を読み、納経し終えて次の寺に向けて歩きはじめる。カラダのことばかり書いているけれども、頭は遍路旅に出てきたその目的のほうにむかっている。

【遍路を支えつづきてきたひとたちに出会い、その方々が見ている世界を自分も見たい】

けれども昨日の時点で分かった。

お接待をしに来てくださるかたは、たいていの方が引き際のようなものを心得ていらっしゃって。それがお金でも、食べ物でも、その方が自分に声をかけてくださって、お気をつけて、とという言葉とともに手渡されるとそのまま帰っていかれることが多いのだ。

なんだかなぁ。どうすればいいか。お接待所を構えていらっしゃるかたもいて、そこなら人が住んでおられるから自分が珈琲をいれることができるだろうか。なんて思って歩いていたら、きれいな色のエプロンを着たおばさまが庭にひとつひとつ鉢に分かれて植えてある花のお手入れをされていたので、おはようございます!と声をかけた。

ニコッと振り返ってくださったおばさまに、しばらくお花のことをたずねてみる。大変だけれども、そのひとつひとつに個性があって、それは育ててみないと分からないことだわね、と話してくださった。

えいや!という気持ちで遍路旅の目的を話しながら「僕の珈琲を飲んでくださいませんか?」と声をかけた。

「いただこうかしら」

おばさまはニコっと返してくださった。

おうちのデッキになっているところにサッと藍染の布を広げてそこに茶道具を広げていく。まだまだお手前のようなものには程遠く、一個一個置いては確かめているような状況だ。あとから写真で見返してもまだまだ茶人にはほど遠い。

「今日はね、ちょうどまだコーヒーを落としていなかったしね、お父さんも出かけているし、若いひととこうして話ができてよかったわ」

と言ってくださった。彼女自身も旦那さんとお遍路を何年もかけてまわられた話をしてくださった。それから、「3年前くらいまではね、ちょくちょくとお遍路さんがねピンポンを鳴らされて、お経を唱えていかれることがあったのだけれどね、最近はそれがめっきり無くなったわ」と教えてくださった。


この日はまた9番札所のところで僕を出迎えてくださった佐藤さんというおじさんがいらっしゃった。その佐藤さんも、僕にラーメンのお昼ごはんを接待くださいながら、そのときに

「僕の子どものころはね、玄関でチリンという鈴の音がしたらね、すぐにお米がはいったおひつから一合分をすくって玄関に走っていったよ。それはもう自分に染み付いているような感覚だね。当たり前のようにしてそうしていたよ。」

と教えてくださった。僕はまだそこまで遍路のかたにお会いして話したことはないけれども、もしかしたら僕がインドやネパールを旅していたときに、山奥や街なかでよく見かけたあの行者さんのように、このお遍路も修行のように歩かれていたかたがたくさんいるのかもしれない。

ネパールでは、どんな食堂でも、雑貨屋でも、はたまたお家でも、軒先に行者が立つとサッと小銭を渡していた。行者はお辞儀をするわけでも、お経を唱えるでもなく、サッとまた次に向かって歩きはじめる。そんなものに近いことがこのお遍路でもあるのかもしれない。

かもしれない。

きっと、かもしれない、ままこの旅は終わるのだろう。けれどもその、かもしれないを自分なりに深めていくことはできるのではないかと思う。


9番札所では、僕に1番札所で会いにきてくださっていたのだけれど、会えなかった佐藤さんが待ち構えてくださった。ラーメン屋にお接待で連れて行っていただき、そのあとお寺のそばの紅葉した木のしたでコーヒーを飲んでいただく。

「この先はどこまで歩きますか?」

分かりません。と答える。

先があっては、僕の頭には先への段取りができてしまう。そうしたらいまこの目の前の人を前にして、そのことを考えてしまう。それでは自分なりのおもてなしをさせていただくことができない。そう、それは自分の弱さだ。けれど自分ができることをすること。それが珈琲とともに歩くことにした僕がやるべきこと。

そのあと、またご連絡をいただいた。サッと立ち寄ってくださった彼女に河川敷でコーヒーを水筒に詰めさせていただき、10番まで暗くなる手前でたどり着いてから、お参りはせずに、また別の人をコーヒーの準備をして待つ。

そのおふたかたが友だち同士だと分かり、連携プレーで僕を今日泊めてくださることになった。こんなにいい思いをさせていただいていいのだろうかと思いながら、ご家族と楽しい時間をすごし、娘さんにコーヒーをいれてもらって、そうして3日目の夜は過ぎて行った。

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