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【その存在をただ認めてもらえる】という体験をぼくはコーヒーで味わった。

大坊勝次さんからお手紙をいただいた。
ぼくの焙煎の師匠だ。
フリーコーヒーをお世話になった大坊さんに少しだけお送りさせていただいた。
そうしたらお手紙が届いた。

たった一度だけ、数時間だけの教室だったけれど。
はっきり言って、まだ焙煎をはじめたばかりのぼくには、
そのときに手応えのようなもの、輪郭をなぞれるような
実感は生まれなかったけれど。
けれどそのときに、なにより大切なことを教わったのだ。

30数年間、伝説と呼ばれる東京の中心で珈琲店を営み手まわし焙煎を
続けてきた大坊さん。
彼が教えてくださる数時間の焙煎教室で、ただの一度でも何かを断定
しなかった。
それも教える立場として来ているにも関わらずにだ。

彼は焙煎教室のはじめにこう言われた。
「今日はみなさんの前で焙煎をお見せします。そうしてみなさんにも焙煎を
していただきます。けれどもぼくがお見せするのは焙煎の答えではありません。
それはみなさんの中にこそあります。ぼくはみなさんがその答えを見つけるために基準となるひとつの点をお見せしますので、よく見てくださいね。」

びっくりした。嘘やろって思った。
35年の人生を捧げてもなお、この人は【答え】というものを決めつけない。
あくまで「ぼくはここが心地よいんです」という表現を繰り返しながら、
その焙煎を受講生の前で見せてくださった。

大坊さんのあとは受講生それぞれが焙煎をし、それぞれの豆を
大坊さんがネルドリップで落としてくださったものをみんなで飲んだ。

そのどれひとつとして大坊さんはジャッジしなかった。
「これは酸がだいぶ残っていますね。けれどのその酸が嫌な感じではないですね。見た目ではずいぶんと浅いなと思いましたが、それでも嫌じゃない。美味しいですね。」
6人のうちで一番浅かった僕の豆を大坊さんはそう表現してくださった。

そのことがずっとずっと余韻に残っている。
美味しいこと。珈琲を志せばかならずそこには向き合うと思う。
もちろん生のコーヒー豆にも質があって、それからさらに焙煎というものがある、きっと酸や甘み、苦味という物差しを用いるのならそれぞれに点数がついていたのだろう。

けれども大坊さんはそれぞれに焙煎された豆の個性を見つめ、
それぞれのよさをじっと見つめて言葉に紡ぎ出されているんだろう。
そこには否定というものがない。
そこに存在する珈琲に「そのままそこにいていいんだよ」と声をかけてくださっているような、そんな気持ちがして僕はうれしくなった。

あれからずいぶん焙煎したつもりだけれど、きっと大坊さんの100分の1さえも
まだ僕は焙煎していない。毎日8時間ずつ、30数年続けてきたんだから。きっと
これからも追いつくことはないだろう。

けれどもそんな年齢も腕も若いぼくのコーヒーを、また大坊さんは
彼のその大きな世界観で肯定してくださった。

そんな言葉をなぞりながらぼくはまた大坊さんに会いたいと思った。

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