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だれも泣いていないといいな、こんな夜は

3年前にあった、仰天ニュースの話をしますか…

TVの話ではなく、実話ですが。

調子の良い時のなかった3年前。
夏頃に急に喘息が出始めました。

13年ほど前に、喘息の診断は受けていました。
しかし、それの理由は極度のストレスからだったらしく、そのストレスの原因であった職を辞したら、症状がなくなり、治療もやめてしまいました。
でも3年前までは全く出ることはありませんでした。

それがいきなり咳が続く。
最初は風邪かと思ったのですが、種類が明らかに違いました。
夜寝ていれなくなり、喉からヒューヒュー音がします。

あー、喘息だなあ、どうしたんだろう急に。

体のしんどさとは別に、私は呑気に構えてました。

精神疾患のある私は、新しい場所に行くのがとても苦手です。
たとえ北が一緒でも、躊躇します。
北も喘息の知識はなく、医療機関に勤めていた私が積極的に受診しようと言わなかったので、ただ傍観している状態でした。
そして日によって楽になったりもするので、このまままた症状が消えるかもしれないと楽観視してました。

10月5日。
私の誕生日でした。
いつものようにオーバードーズして目が覚めたのは22時でした。
最近は喘息でよく寝れなかったのに、今日はよく寝たな、と思いつつ、シャワー浴びてまた寝ようとして、まずトイレに行きました。

トイレをすませ、衣服を整えた途端、今までにないほど激しい喘息発作が起きました。

衣服を整えた直後での発作でしたから中腰です。
うちは2DKのトイレバス別ですが、トイレはそんなに広いわけではありません。

喘息発作に苦しみながら私は激しく壁に頭をぶつけて、そこからどのくらいかわかりませんが、意識を失いました。

トイレには時計もありませんし、携帯も持ち込んでません。一体どのくらい時間がかかったのか。
目覚めた時、私はトイレと壁の隙間にすっぽりと挟まってました。

最初はなんで動けないんだろうと思いました。あまり自分の車幅感覚がなく、しょっちゅう何かにぶつかる人間なので、自分のサイズと、トイレと壁の隙間のジャストフィットが理解できない。

右足は便座に乗り掛かっている、横向きの状態。

もがけばもがくほど便座に乗ってる右足が痛くて、どうにもなりません。

日頃からの不摂生と、オーバードーズ気味の生活、そしてその時はわからなかったのですが、結構酷く頭をぶつけて傷を負っていて、私の意識は朦朧としていました。
動けないと悟ると、また気を失いました。

うちのトイレには窓がないので、気づいてもそれが昼なのか夜なのかわかりません。
そうして住宅密集地にも関わらず、近所の方はごく静かに生活されているのです。お隣なんて二世帯お子さん男の子が3人いるのにまったく騒がしくない。
音で時間の予測もできません。
ただ、たぶん新聞配達の方なのでしょうが、毎朝5時ごろ、私の家の前を通過する音がしていて、トイレでも聞こえるような気がしました。
それが聞こえると、朝だ、と気付きます。
でも、振り返るとあれも幻聴だったのかもしれません。
自分の予想では2日ほどたったとき、これはちょっとまずいのかも知れないと思い始めました。
幻覚が現れました。
トイレに横倒しになっているので、目に入るのは当然トイレの壁ですが、そこに、ネットニュースの見出しのようなものが写るのです。
最初は幻覚とも思わず、ただ普通に読もうとしていました。でも読もうとすることで意識がはっきりするのか、それは消えます。
何度かそういうことがあって、幻覚なんだと気付きました。
自分の予想では3日くらいたったとき、急に北のシフトの事が頭に浮かびました。
彼は日勤、準夜、夜勤とある仕事をしてます。そして休みなら必ず来てくれる。今北はどのシフトでいつが休みだ?
しかしこういう時に限って、日頃の行いが仇になります。
オーバードーズしすぎで、前に北がいつ来たのかわからなくなっていました。
また、当時は会社の行き帰り必ず電話をしてと約束していたのですが、その本人が薬の飲み過ぎで寝てたり、取っても呂律が回ってなかったり、電話中に寝てしまったりしていて、たぶん北は私が電話に出ないことを当たり前に感じていた時期でもありました。

何年か前、トイレに入っていた女性が、トイレのドアの前で体重計100kgある夫が心筋梗塞で急死しドアが開けられなくなり、女性も餓死か何かで亡くなられた事故を思い出します。
真夏ではなく、真冬でもないので、熱中症になったり凍えたりはしなかってのですが、これは真剣に危険な状況だとようやく気付きました。

人間はどのくらい水を飲まなければ死ぬのだろうと考えましたが、浮かんできません。
そうして、トイレが臨終の場所か、私にふさわしいなとという諦観。
事故物件になってしまう、大家さんと不動産屋さんに申し訳ない、という気持ち。
間違いなく北が第一発見者だ。彼は何を思うだろう。面倒なことに巻き込んでごめん。
あと、何故か、ちょうどその頃どこかのキャンプ場で女の子が行方不明になった事件があり、連日報道されていて、ああ、あの子は見つかったかな、無事だといいな。なぜかそんなことを考えました。

うつらうつらとしながら、幻覚を見て、消えるのを確認して、またうつらうつら。
意識がはっきりしてなかったから、かえって冷静だったんでしょう。
私の中で5日たった日は、それでも希望を持ちました。
北が今日は来てくれる。
そうして意外と人間というの死なないものだと思いました。
わたしは待ちました。北の足音と鍵の音、「おーい」という、ちょっと冷たげな声。

しかし、その時は訪れませんでした。
初めて絶望しました。
死に対してではなく、ああ、私はとうとう北に見捨てられたのだ、もう顔も見たくない人間になったのだ、だから来てくれないのだと。

私の中で6日目の夕方、幻聴が聞こえました。
鍵がガチャガチャ鳴っているのです。
そろそろ幻聴にも幻覚にも慣れた私は、もういい、と思いました。

幻聴は続き、ドアが開き、足音が聞こえ、

「おーい」

幻聴かも知れない、でも私は叫びました。

「北!?」

彼は部屋の反対から聞こえてきた声に戸惑ったと言います。

「北!今何日何曜日何時!」
「え…10月10日木曜日、10時」
「午前!?午後!?」
「AM」
「私トイレに5日間閉じ込められてたの!」
「ええっ!?」

後にも先にも、あんなに動揺した北の声を聞いた事はありません。

彼は夜勤明け、眠らずに来てくれました。
どうせ喘息でしんどくて電話にでないんだろう。今日こそは絶対病院に連れて行くと、早めに来てくれたのです。

「どうやっていたの?スマホは?退屈だったろうに」
相応混乱していたんでしょうね。トイレで私を見つけての第一声がそれでした。

私は
「ごめんけど、とりあえず救急車呼んで。あと、トイレを破壊する可能性あるから消防出動もいるからその旨伝えて」
「君ぐらい引っ張り上げれるよ」
「完全に挟まってる。無理。でも電話の前にミルクティー飲みたい。冷蔵庫に入ってるから」
元医療機関勤めで、だいたいの予想はつきました。
極めて冷静だったと後で言われます。
5日間、飲まず食わずで全く飢え渇きを感じなかったのですが、北の声が聞けて、はじめて渇きを感じました。

「ほんとに救急いる?」
「いる、間違いない」
私にミルクティーを飲ませた後、釈然としない様子で119番しました。

「救急ですが、本人が消防車もいると言ってます。5日間トイレに閉じ込められていたそうで…」

うちは消防局に近い立地です。
北が出迎えるために外に出た頃、救急車のサイレンの音が聞こえました。
安心で、また意識が朦朧としてきます。
しばらくすると、しっかりした声で、
「なぎさん!もう大丈夫ですからね!」
家の外から男性の声がしました。
ひどく胸を打ちました。

私にはわからなかったのですが、救急車2台、消防車1台の出動だったそうです。
そして、家の中に16人くらいの隊員の方が、どうやって収ったか謎ですが入ってこられたそう。
状況を見て、やはり私の苦痛を取り除くためにトイレの破壊が検討されました。
しかし、一人の隊員が
「自分にさせてください!」
と声を上げてくださりました。
あの狭いトイレにどうやって入られたのか、気づくと隊員の方が目の前にいて、
「すこし痛みますが我慢してください」
と仰り、なにがどうされたのか、ねじられ曲げられ、するりと隊員の方に持ち上げられました。
82kg持ち上げられるんだ、すごい。私は見当違いの事を思ってました。

すぐに担架に乗せられ、救急車に。
「これはドクターカーです。私は医師です。お名前、生年月日を」
答えると
「このまま医大に行きます。大丈夫ですから」
医大も近所にあります。
本当に安心した私は、それまでなかった感覚、寒い、痛いを訴え始めました。
「痛いです…」
「寒いです…」
それしか口にできません。

病院に着くと、ストレッチャーのまま浴びれるシャワーで全身を洗われました。
「あと3分で患者さん行くよ!タオルは!」
「ありません!探してます!」
「あと二分!」
「痛いです…寒いです…」
「あと1分!」
「ルート確保出来ません!」
「タオル来ました!」
「ドクター呼んで、静脈無理だ」
「痛いです…寒いです…」
「なぎさん、カテーテル入れますから痛いですよ!」
「…痛くないです。寒いです…」
「血圧80/40!毛布!」
「なぎさん、電気毛布も来ましたよ、大丈夫ですよ」
「痛いです…寒いです…」
「だめだ、衰弱しすぎて検査の分血液足りない」
修羅場です。

半ば眠っているような状態で、あとこちストレッチャーで移動して検査。
頭部CTの時に、急に思い出して、
「月経困難症でピル飲んでます」
「血栓のリスクがさらに高まるという事ですか」
下肢エコーの必要も出ました。

実はその時、私はほとんど目が見えてませんでした。
理由はわかりませんが、この病院はなんて暗いんだろう、と思ってました。一晩で治りましたが。

寒いと痛い以外は感じられず、私はどうやら病棟に連れて行かれたようです。
緊急救命科にHCUへの緊急入院でした。

師長が手を握り、
「なぎさん、よく頑張りましたね、大丈夫ですよ」
と言ってくれました。

その間もずっと痛い寒いと繰り返す私に、
「先生、あんまりだわ、かわいそう。麻薬入れてあげて」
と話されてます。
医大ではモルヒネを麻薬と言うのか、なんかハードだな。取り留めない事を考えます。
そこに形成外科の先生が来て、私は初めて自分が怪我をしていることを知りました。
額は裂創、左腹部と便座に乗っていた右の脹脛に褥瘡が出来ていました。
当時は全く体が動かせなかったのでわかりませんでしたが、ふくらはぎに大人の手のひら二つ分くらいの傷が出来ていました。これが深く傷ついていて、3年たった今でも傷跡はあります。
北いわく、トイレ血まみれだったと。

麻薬と電気毛布でかなり楽になった私に、
「なぎさんの容体次第で、透析の可能性があります」
と伝えられます。
意味がわかりませんでしたが、診断名が挫滅症候群でした。
別に家具の下敷きになった訳でもなく、特に圧迫されていた記憶も無いのに。

バイタルを常にチェックする為に、動脈注射が試みられましたが、これができない。
何度も何度も、ドクターが5人ほどかかりきりでしたが、無理でした。
「なぎさんの血管はちょっと特殊なようですね」
「ポンコツですみません」
「そんな事はないんだ!そんなこと言ってはダメだ!」
ドラマみたいなセリフも聞きました。

北は入院手続きのため窓口に行ったり、必要と言われるものを売店で購入したりしてくれました。

家族がいても頼れない私は、北だけが頼れる人で他にいないというのを、北は根気よく説明して、普通は家族が書く入院誓約書も書いてくれました。
彼がキーパーソンだったので、特別にHCUにも入ってきて、面会時間が終わるまでついていてくれました。

最初は当日入院、まあ長くても2日ほど、なんてお互い思ってましたが、状態は良くなく、あと、身体機能がほとんど失われていました。
5日、動かないと人間本当に動けなくなります。
今は早期離床なので、下肢エコーの結果が出てからは動くように指導されましたが、立つのはおろか、自分で食事もとれません。
どうなるのだろう、と不安に思わなくもなかったのですが、薄皮一枚一枚剥ぐように、日に日に回復していきました。
腎臓機能に幸いにも問題はなかったのですが、尿量が少なく、とにかく水分摂取しろと言われます。
水分は十分取っていたのですが、全く食欲がなく、食事が取れませんでした。たぶんそれで全体の水分量が減っていたのだと思います。
それでもHCUに1週間、一般病棟で1週間の入院になりました。最初の予定では1週間だったので、長めの入院でした。

入院の間、特にTVを見ることもなかったので、大型台風が関東を襲っただの、キャンプ場で行方不明になった女の子は見つかっていないだの、あとで知りました。

私は無事生還して、透析も必要とせず、しばらく通院して、足に傷跡は残りましたが、額の傷は綺麗に治りました。

不思議なのは、トイレに倒れている間と入院中は、喘息が起きなかったことです。
退院したらすぐ再発して、呼吸器内科に通うようになりましたが。

あと、脳疾患などでなくトイレで倒れて入院される方は少なくないとの事。
私のように5日間はないとの事でしたが。

退院して、しばらくして見た仰天ニュースで、似たような話が紹介されていて、微妙な気分でした。

そうして、2週間、水分のみでほとんど病院食を食べなかったのにも関わらず、体重は変わらず。

人間は弱い。
でもしぶとい。

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